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金子文子 天皇国家批判

手記表紙

























金子文子、天皇国家批判


「私は予て人間の平等と云う事を深く考えて居ります。

人間は人間として平等であらねば為りませぬ。

其処には馬鹿も無ければ利口も無い強者もなければ弱者も無い。

地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云えば

総べての人間は完全に平等であり、

従って総ての人間は人間であると云う只一つの資格に依って

人間としての生活の権利を完全に

且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります。

具体的に云えば人間に依って嘗て為された為されつつある

又為されるであろう処の行動の総べては、

完全に人間と云う基礎の上に立つての行為である。

……此の心持つまり皇室階級とし聞けば、

其処には侵す可からざる高貴な或る者の存在を直感的に

連想せしむる処の心持が恐らく一般民衆の心に根付けられて

居るのでありましょう。

語を換えて云えば、日本の国家とか君主とかは僅かに此の

民衆の心持の命脈の上に繋り懸って居るのであります。  

 

 元々国家とか社会とか民族とか

又は君主とか云うものは一つの概念に過ぎない。

処が此の概念の君主に尊厳と権力と神聖とを附与せんが

為めにねじ上げた処の代表的なるものは、此の日本に

現在行われて居る処の神授君権説であります。

苟も日本の土地に生れた者は小学生ですら

此の観念を植付けられて居る如くに天皇を以て神の子孫であるとか、

或は君権は神の命令に依って授けられた者であるとか、

若くは天皇は神の意志を実現せんが為に国権を握る者であるとか、

従て国法は即ち神の意志であるとか云う観念を

愚直なる民衆に印象付ける為めに架空的に捏造した

伝説に根拠して鏡だとか刀だとか玉だとか云う物を

神の授けた物として祭り上げて鹿爪らしい礼拝を捧げて完全に

一般民衆を欺瞞して居る。  

 

 斯うした荒唐無稽な伝説に包まれて眩惑されて居る

憫れなる民衆は国家や天皇をまたとなく尊い神様と心得て居るが、

若しも天皇が神様自身であり神様の子孫であり日本の民衆が

此の神様の保護の下歴代の神様たる

天皇の霊の下に存在して居るものとしたら、

戦争の折に日本の兵士は一人も死なざる可く、

日本の飛行機は一つも落ちない筈でありまして、

神様の御膝元に於て昨年の様な天災の為めに

何万と云う忠良なる臣民が死なない筈であります。  

 

 然し此の有り得ない事が有り得たと云う動かす事の出来ぬ事実は、

即ち神授君権説の仮定に過ぎない事、

之れに根拠する伝説が空虚である事を余りに

明白に証明して居るではありませぬか。

全智全能の神の顕現であり神の意志を行う処の

天皇が現に地上に実在して居るに拘らず、

其の下に於ける現社会の赤子の一部は飢に

泣き炭坑に窒息し機械に挟まれて惨めに

死んで行くではありませぬか。

此の事実は取りも直さず天皇が実は一介の肉の塊であり、

所謂人民と全く同一であり平等である可き筈のものである事を

証拠立てるに余りに充分ではありませぬかね。

御役人さん左様でしょう。……

 

 寧ろ万世一系の天皇とやらに形式上にもせよ統治権を

与えて来たと云う事は、日本の土地に生れた人間の最大の

恥辱であり、日本の民衆の無智を証明して居るものであります。  ……

 

 学校教育は地上の自然的存在たる人間に教える最初に於て

<はた>(旗)を説いて、先ず国家的観念を植付ける可く努めて居ります。

等しく人間と云う基礎の上に立つて諸々の行動も只それが権力を

擁護するものであるか否かの一事を標準として

総ての是非を振り分けられて居る。

そして其の標準の人為的な法律であり道徳であります。

法律も道徳も社会の優勝者により能く生活する道を教え、

権力への服従をのみ説いて居る法律を掌る警察官は

サーベルを下げて人間の行動を威嚇し、

権力の塁を揺す處のある者をば片っ端から縛り上げて居る。

又裁判官と云う偉い役人は法律書を繰っては人間としての

行動の上に勝手な断定を下し、人間の生活から隔離し

人間としての存在すらも否認して権力擁護の任に当って居る。 ……

 

 地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の

代表者は天皇であり皇太子であります。

私が是れ迄お坊っちゃんを狙って居た理由は此の考えから

出発して居るのであります。

地上の自然にして平等なる人間の生活を蹂躙して居る権力の

代表者たる天皇皇太子と云う土塊にも等しい肉塊に対して、

彼等より欺瞞された憫れなる民衆は大袈裟にも神聖にして

侵すべからざるものとして、至上の地位を与えてしまって

搾取されて居る。

其処で私は一般民衆に対して神聖不可侵の権威として

 

彼等に印象されて居る処の天皇皇太子なる者の

実は空虚なる一塊の肉の塊であり木偶に過ぎない事を明に説明し、

又天皇皇太子は少数特権階級者が私服を肥す目的の下に

財源たる一般民衆を欺瞞する為めに操って居る

一個の操人形であり愚な傀儡に過ぎ無い事を

現に搾取されつつある一般民衆に明にし、

又それに依って天皇に神格を附与して居る

諸々の因習的な伝統が純然たる架空的な

迷信に過ぎない事、従って神国と迄見做されて居る

日本の国家が実は少数特権階級者の私利を貪る為めに

仮説した内容の空虚な機関に過ぎない事、

故に己を犠牲にして国家の為めに尽すと云う日本の

国是と迄見做され讃美され鼓吹されて居る彼の忠者愛国なる思想は、

実は彼等が私利を貪る為めの方便として

美しい形容詞を以て包んだ処の己の利金の為めに

他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる慾望に

過ぎない事、従てそれを無批判に承認する事は

即ち少数特権階級の奴隷たる事を承認するものである事を警告し、

そうして従来日本の人間の生きた信条として

居る儒教に基礎を求めて居る他愛的な道徳、

現に民衆の心を風靡し動もすると其の行動をすらも律し勝な権力への

隷属道徳の観念が実は純然たる仮定の上に現れた錯覚であり空ろなる

幻影に過ぎない事を人間に知らしめ、それによって人間は完全に

自己の為に行動すべきもの宇宙の創造者は即ち自己自身である事、

従て総ベての<モノ>は自分の為に存在し全ての事は自分の為に

為されねばならぬ事を民衆に自覚せしむる為に

 

私は坊ちゃんを狙って居たのであります。」

 

「私等は何れ近い中に爆弾を投擲することによって

地上に生を断とうと考えて居りました。

私が坊ちゃんを狙ったと云う事の理由として

只今迄申上げました外界に対する宣伝方面、

即ち民衆に対する説明は実は私の此の企私の内省に稍々著色し

光明を持たせたものに過ぎないのであって、

取りも直さず自分に対する考えを他に延長したもので、

私自身を対象とするそうした考えが

即ち今度の計画の根底であります。

私自身を対象とする考え、

私の所謂虚無思想に就いては

既に前回詳しく申し上げて置きました。

私の計画を突き詰めて考えて観れば、

消極的には私一己の生の否認であり、

積極的には地上に於ける権力の倒壊が

窮極の目的でありました。

私が坊ちゃんを狙ったのは

そうした理由であります。……

 

私は今後も為たい事をして行きます。

其の為たい事が何であるかを

今から予定する事は出来ませぬが、

兎に角私の生命が地上に在らん限りは

<今>と云う時に於ける最も<為たい事>から

<為たい事>を追って行動する丈は確かであります。」  

第十二回予審訊問調書  






金子文子/韓国ムンギョンの墓碑

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金子文子の活動と死  

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大審院判決主文/判決理由全文 1926.3.25

判決朝日夕刊_0003













理由

被告準植は其の幼時より受けたる環境の影響、民族の現状に関する不満の念よりして

偏狭なる政治観及社会観に陥り遂に地上の万類を絶滅し自己亦死するを以て究極と

する其の所謂虚無主義を抱持するに至り此の思想を実現せしむる為我 皇室に対し

危害を加ふるの非望を有し、被告文子は幼にして父母の慈を享けず荒らたる家庭に

生立ち早く既に惨憶に流離辛苦の余骨肉の愛を信ぜず孝道を否定し権力を呪ひて 

皇室を蔑視し現代社会は其の身を絶望の域に陥らしめたるものなりとして其の無情を

憤り生類の絶滅を期する虚無的思想を懐くに至り大正十一年二月頃被告両名相識るや

互に其の思想を語りて意気投合するものあり同年五月頃

東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷に一戸を構へ同棲するに尽いて両者の

略一致せる極端なる思想は輒滋々高潮して其の理想を実現せしむる為具体的計画を

樹つるに至れり大正十二年の秋頃挙行あらせらるる趣に伝えられたる 皇太子殿下の

御婚儀の時を機として至尊の行幸又は 皇儲の行啓を便宜の途に擁し鹵簿に対し爆弾を

投擲して危害を加へ奉らむことを謀議し其の企画遂行の用に供する爆弾を入手せむが為

被告文子と協議の上被告準植は大正十一年十一月頃朝鮮京城府に赴き当時義烈団と

画策せる朝鮮人金翰と同府観水洞四十七番地なる其の住居に於て会見し爆弾の分与を

申し込み其の約諾を得、越て大正十二年五月亦被告文子と協議の上被告準植は

東京市本郷区湯島天神町一丁目三十一番地下宿業金城館其の他に於て、

数次無政府主義者金重漢と会合し前示義烈団と連絡して上海より爆弾を輸入せしむことを委嘱し、

其の承諾を得たるも之を入手するに至らざりしものなり証拠を案ずるに以上の

事実中被告朴準植に於て金重漢は義烈団と連絡を取ることを承諾せるのみこして

爆弾輸入に付承諾せるに非ずと否認し被告金子文子に於ては金重漢に対する依嘱に

関与せずと否認する外前示犯罪事実は総て各被告の当公廷に於て認むる所なるのならず

本件犯罪及其の原因、動機に付ては左に挙示する所に拠りて其の証憑十分なりとす

被告朴準植が朝鮮京城に趣き金翰と会見し爆弾分与の交渉を為したる事実は各被告の

訊問調書に同趣旨の供述記載あり又証人金翰の訊問調書に

大正十一年十一月頃日本政府に反抗する目的を以て組織されたる

暴力団義烈団の金元鳳と呼応し朝鮮に爆弾の輸入を画策し当時其の数個既に安東県に到着し居り

数日を出ずして入手する手筈なりし折柄京城に於て朴準植と会見し同人より

爆弾分与を依頼せらし之を承諾したる趣旨の供述記載あり別件記録中

(治安警察法違反爆発物取締罰則違反事件を指す以下皆同じ)同証人訊問調書にも

京城観水洞四十七番地なる居宅に於て朴と会合し爆弾の分与を受諾したる旨及朴とは

妓生李小紅事李小岩の訊問調書に金と朴との間に於ける文書往復に付取次を為したる

旨の供述記載あるとに依り之を認むべく金重漢との関係に於ては証人金重漢の訊問調書に

大正十二年五月中湯島天神町一丁目三十一番地下宿業金城館其の他数か所に於て朴烈と

会合せる際同人より爆弾を輸入する為連絡を取ることを依頼せらし之を承諾したるに相違なき

趣旨の供述記載あると別件記録中の被告金重漢の訊問調書中に右と同趣旨及自分は上海に

赴き独立党又は共産党の者に朴の意思を伝へ其の連絡を取り取次を為さば自分の任務を了る筈にて

朴に費用の支出を求めたる旨及或時朴烈より今秋御婚儀に使用する為上海の義烈団と連絡を取り

爆弾を手に入れ呉れと頼まれ其の位のことならば行ふべしと承諾したるに朴烈は費用は有島の処より

調達することとせる旨の供述記載あり同記録中に於ける被告朴準植の訊問調書に爆弾の入手を

金重漢に依頼したる旨の供述記載あるによりて之を認む

金翰及金重漢に対する依嘱が被告両名の共謀に出でたることは被告朴準植の当公廷に於て

自認するのみならず同被告の訊問調書に金翰金重漢に対する依嘱に付ては金子文子も其の

相談に与しる旨の供述記載あり別件記録中の被告金子文子の訊問調書に金重漢の人と為りを

認めたるより朴と相談の上朴より金重漢に対し爆弾を上海より輸入せしむことを依頼したる旨の

供述記載あるに由り之を観れば被告両名の共謀に出たること明にして被告文子の当公廷に於て

金重漢の依嘱には関与せずとの弁疏は之を採用せず

右爆弾入手の企図が畏くも我 皇室に対し危害を加へんとするの目的に出たることは被告両名の

当公廷に於て自認する所なるのみならず被告朴準植の訊問調書に 天皇陛下 皇太子殿下に対し

危害を加ふることを計画したるに相違なき旨被告金子文子の訊問調書に同趣旨の各供述記載あると

別件記録中に於ける被告朴準植の訊問調書に自分は日本より虐げらるる朝鮮民族の一人として日本の 

皇室に対しては拭ふべからざる叛逆心を有する旨、朝鮮の一般民衆は我 天皇陛下 皇太子殿下を

名実兼備の実権者にして倶に天を戴くこと能はざる讐敵なりと思ふが故に

其の存在を地球より抹殺し去るを以て朝鮮民衆の革命的独立の熱情を

刺戟するに有効なる一方法なりと考へたる旨殊に大正十二年秋季に挙られるべき 

皇太子殿下の御結婚期に爆弾を使用するは朝鮮民衆の日本に対する意思を世界に

表明するに最好機なりと思ひ出来得る限り其の時期までに間に合ふよふ

計画を進めたる旨而も是単なる理想に止まらずして其の実現を期し計画を

進めたる旨の供述記載あり又別件記録中に存する被告金子文子の訊問調書に

大正十二年四月頃の新聞紙上に 

皇太子殿下の御結婚が同年秋季頃に行はるるとの報道掲載ありしより

此の時期を好機として爆弾を投擲せんと計画したる旨、朴が京城に赴き

金翰に交渉したる当時に於ても其の時期までに爆弾を間に合はし呉れるよう話したる筈にて

金重漢との関係に付ても自分と朴との間には行列に使用すべく話したることある旨及 

天皇陛下を爆弾投擲の対象とせざりしにあらさるも比較的可能性多き 

皇太子殿下を第一対象として計画を進めし旨の供述記載あるに依り明確なり 

犯罪の原因動機に関しては被告人朴準植が

朝鮮慶尚北道聞慶郡麻城面の一農家に生れ家貧なるに拘らず学に志し

朝鮮総督府の施設せる公立普通学校の過程を卒へ進みて

高等普通学校師範科に入るに至り日鮮人間に差別待遇あるものと做し

日本の統治に不満を懐き民族的独立の思想を抱きて

大正八年十月頃東京に来り各種の下級労務に服し僅に生活を支ふるに?ひて

広義の社会主義に入り次で無政府主義に変じ更に虚無的思想を抱くに至り

人類社会は弱肉強食を事とする醜悪の府なりとし自己は圄()より万物の存在を否定すると同時に

堪へられざる虐待の下に弱者として忍従するを得ず総ての物の絶滅を志し

一面朝鮮民族の一人として日本の権力階級に対して叛逆的復讐心を有し之が為我 

皇室に対して報復せんと企て畏くも 天皇陛下 皇太子殿下に危害を加え奉らむことを

図りたることは別件記録中に存する被告朴準植の訊問調書に其の旨の供述記載あり

又被告金子文子は佐伯文一金子きくのの間に私生子として生れ幼にして父母相次で他に去り

孤独の身と為り其の慈愛に浴するを得ず朝鮮其の他各所に流寓して備に辛酸を嘗め人生を悲観し、

社会を呪ふに至り大正九年の春東京に出て爾来或は夕刊売となり或は夜店商を為し

又或は他家に雇はれ其の間学校に通学したることあり又思想に関する書籍を耽読し

且各種の主義者と交り過去の生活の総て強者より蹂躙せられたりとして権力を否認し

人類の絶滅を期するを理想とし大正十二年二月頃被告朴準植と相知るや両人

の主義思想の投合するあるよりして東京市外代々木富ヶ谷に一戸を構へ同棲し

遂に本件犯行を為すに至りたることは別件記録中に於ける被告金子文子の訊問調書に

其の旨の供述記載あるに依りて之を認む

之を要するに本件犯行は以上叙述するが如く被告等の環境の影響と謬しる

社会上政治上の観念とに依り其の主義思想の悪化せるに基くものにして

被告朴準植は日韓併合の真相を解せず

被告金子文子は矯激なる偏見に囚はれ肯謀りて畏くも 

皇室に対する大逆事犯を企画し因て以て光輝ある我国史に

一大汚点を印したる其の罪責は極めて重きものと謂はざるべからず

法律に照すに被告両名の前示すの如く 

皇室に危害を加へむとしたる所為は刑法七十三条に該当し

右の目的を以て金翰金重漢に爆発物を注文したる所為は

明治十七年太政官布告第三十二号爆発物取締罰則第三条に該当し

爆発物の注文は 皇室に対し危害を加へむとしたる所為に外ならざれば

刑法第五十四条第一項前段に依り重き同法第七十三条の刑を以て処断すべく

訴訟費用は刑事訴訟法第二百三十七条第一項第二百三十八条に依り

被告両名をして連帯負担せしむべきものとす仍て主文の如く判決す

検事小山松吉同小原直関典


大正十五年三月二十五日

  大審院第一特別刑事部

              裁判長判事

金子文子全歌集 其の一



2003.1.4 2005.6.3改訂


1920年代から30年代に刊行、雑誌に発表された以下のテキストを底本とした。

1 遺著『獄窓に想ふ 』 <黒色戦線社による復刻版ではない>

2 「女死刑囚の手紙」

3 「獄中雑詠」

以下は1988年に刊行されたテキストを底本

4 「補遺」は黒色戦線社版『獄窓に想ふ』の補遺

5 「手紙六月」は黒色戦線社版『獄窓に想ふ』掲載の栗原一夫宛

それぞれの掲載順に通し番号を付した。

共通して掲載されているものに、若干の文字の異動が存在するが

その場合『獄窓に想ふ』を底本とした。栗原一夫による編集の際に生じたと推測する。

不明漢字の修正は後日(1から5のアップ2005年6月3日)


金子文子


遺著『獄窓に想ふ』


自序

 

歌詠みに何時なりにけん誰からも学びし

事は別になけれど

獄窓1



我が好きな歌人を若し探しなば夭くて逝

きし石川啄木

獄窓2



迸る心のまゝに歌ふこそ眞の歌と呼ぶ

べかりけり

獄窓3



派は知らず流儀は無けれ我が歌は壓しつ

けられし胸の焔よ

獄窓4



燃え出づる心をこそは愛で給へ歌的価値

を探し給ふな

獄窓5



  折々のすさび

獄窓にて        金 子 ふ み

 


獄窓6 

散らす風散る桜花ともどもに潔く吹け潔

く散れ

(大審院判決前日の歌1926.3.25「獄窓に想ふ」 )



己を嘲けるの歌

獄窓7

ペン執れば今更のごと胸に迫る我が来し方のかなしみのかずかず

獄窓8

そとなでて独り憐れむ稔りなき自がペンダコの恒きしびれを

獄窓9

自が指をみつめてありぬ小半時鉄格子外に冬の雨降る

獄窓10

炊場の汽笛は吠えぬ冬空に喘息病の咽喉の如くに

獄窓11

空仰ぎ「お月さん幾つ」と歌ひたる幼なき頃の憶い出なつかし

獄窓12

あの月もまたこの月も等しきに等しからぬは我の身の上

獄窓13

月は照る月は照らせど人の子は果なき闇路を辿りつゝあり

獄窓14

大杉の自伝を読んで憶ひ出す幼き頃の性のざれ事



25公判開始
獄窓15

早口と情に激する我が性は父より我へのかなしき遺産

獄窓16 雑詠29

朝鮮の叔母の許での思い出にふとそゝらるゝ名へのあこがれ

獄窓17 雑詠19

是見よと云はんばかりに有名な女になりたしなど思う事もあり

獄窓18 雑詠8 手紙9

上野山さんまへ橋に凭り縋り夕刊売りし時もありしが

獄窓19

籠かけて夜の路傍に佇みし若き女は今獄にあり

獄窓20 雑詠10 手紙11

居睡りつ居睡りつ尚鈴振りし五年前の我が心かなし

獄窓21 雑詠1 手紙19

窓硝子外して写す帯のさま若き女囚の出廷の朝

獄窓22

人がまた等しき人の足になる日本の名物人力車かな

獄窓23

稼がねば飯が食はれず稼ぎなば重荷いや増す今の世の中

獄窓24 手紙7

ブルヂュアの庭につゝじの咲いて居りプロレタリアの血の色をして

獄窓25手紙21

監視づきタタキ廊下で労運の同志にふと遇ふ獄の夕暮

獄窓26

砕毛散りまた音もなく忍び寄るさゞ波かなし春の日の海

獄窓27

朝な朝な爪立ちて見る獄庭の銀杏の緑いや増さり行く

獄窓28

山椒の若芽摘み取りかざ嗅げばつと胸走る淡きかなしみ

獄窓29 雑詠21 手紙1

うすぐもり庭の日影に小草ひく獄の真昼はいと静かなり

獄窓30 雑詠22 手紙2

指に絡み名もなき小草つと抜けばかすかに泣きぬ「我生きたし」と

獄窓31 雑詠23 手紙3

抜かれじと足踏ん張って身悶ゆる其の姿こそ憎くかなしく

獄窓30 雑詠30

判決朝日夕刊_0002
盆とんぼすいと掠めし獄の窓に自由を想ひぬ夏の日ざかり

獄窓33 雑詠4

浴みする女囚の乳のふくらみに瞳そらしぬなやましきさ覚えて

獄窓34 雑詠12 手紙12

瀧白く松緑なる木曾の山の姿ちらつく獄のまぼろし

獄窓35

狂ひたる若き女囚の蔭に隠れ歌ふて見しが咽喉は嗄れ居り

獄窓36

我が心狂ひて歌しなどふと思ふ声あげて歌うたふて見たさに

獄窓37

初夏やぎぼしさやかに花咲けば緑の色の褪せ行く

獄窓38

手に採りて見れば真白き骨なりき眼にちらつきし紅の花

獄窓39 雑詠25 手紙4

うつむきて股の下から人を見ぬ世の有りさまの倒が見たくて

獄窓40


歌集 其の二

踉めきつ又踉めきつ庭に立てば秋空高し獄の昼過ぎ

獄窓41

返り咲き庭の山吹三ツ五ツ佇みて思ふ己が運命を

獄窓42

秋たける獄にかなしりんりんと夜すがらすだく鈴虫の音に

獄窓43

鈴虫よさあれかこつな我もまた等しき道を辿りつゝあり

獄窓44 雑詠3

電燈の瞬基きながら消え行くを見れば我が胸かなしく慓ふ

獄窓45

誰がために思ひ悩むか愁ひげに首うなだれて咲くコスモスの花

獄窓46

語れかし我にも情ありコスモスよ汝が胸のかなしき秘密を

獄窓47 雑詠6

ホイットマンの詩集披けばクロバアの押葉出でたり葉数かぞふる

獄窓48 雑詠7

四ツ葉クロバア手触り優し其の心誰が心とぞ思ひなすべき

獄窓49

女看守の火を吹いて焼くめざしのにほひ鼻にしむかな獄の昼すぎ

獄窓50

裁判所帰り冬の夜の電燈暗き牢獄に下り立てば中天に懸る三日月寒し

獄窓51

冬の夜の電燈暗き牢獄にロメオとジュリエットの恋物語読む

獄窓52

寂寞は獄を領しぬ冬の夜に老ひし女看守の靴音寒し

獄窓53

獄衣着て唖の女囚は働けり音なき世にも悩みはあるか

獄窓54

窃盗は恥には非ずなど云ひつひそかに覚ゆる蔑みの心

獄窓55

真白なる朝鮮服を身に着けて醜き心をみつむる淋しさ

獄窓56

風よ吹け嵐よ吠えよ天地を洗ひ浄ひめよノアの洪水

獄窓57

我が霊よ不滅なれなど希ふかな閉し込められの獄に居る身は

獄窓58 手紙17

肉と云ふ絆を脱し我が霊の仇を報ゆる姿など思ひて

獄窓59

さりながら我が霊滅び人の世の醜と手を切る其れもまた好し

獄窓60 雑詠26 手紙13

生きんとて只生きんとて犇めき合ふ娑婆の雑音他所事に聞く

獄窓61

光こそ蔭をば暗く造るなれ蔭の無ければ光又無し

獄窓62

照る程に蔭濃く造る××我は光を讚むる能はず

獄窓63

何処やらの大学生と議論した夢みて覚めぬ獄の真夜中

獄窓64 手紙23

白き襟、短き袂にみだれ髪われによく似し友なりしかな獄窓

獄窓65

些細なる鼻風邪ひきても医者を呼ぶブルには薬は用のなきもの

獄窓66

薬売るは貧乏人の搾取なりなど我云ひ張りぬ湯に行きがてら

獄窓67 手紙25

友と二人職を求めてさすらひし夏の銀座の石だゝみかな

獄窓68 手紙24

今はなき友の遺筆をつくづくと見つゝ思ひぬ、友てふ言葉

獄窓69

口吟む調べなつかし革命歌彼の日の希ひ淡く漂ふ

獄窓70

彼の日には赤き血汐に胸燃えて破るゝなどゝは思はざりしを
25_NEW

獄窓71

凧のごと黒き糸をば脊につけて友かなしくも巷さすらふ

獄窓72

獄に病む我を護れる汝が思ひ早く癒えんと我は誓はん

獄窓73 雑詠15

友の服は破れ我に白き襟番号かなしきまどいよ予審廷の昼

獄窓74 雑詠14

ぐんぐんと生ひ育ち行く彼の友と訣るゝ日近し我のかなしみ

獄窓75

今日はしも我等の為に同志等が闘ふ日なり雨晴れよかし

獄窓76

講演会集ふて叫ぶ若人の群を思へば我も行きたし

獄窓77 雑詠5

一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

獄窓78

黒雲は渦巻き起ちて天つ日を覆?いて暗し夕立の前

獄窓79 雑詠13

去年の今日我を見舞ひし友二人獄に逝きて今はいまさず

獄窓80 雑詠28 手紙6

ギロチンに斃れし友の魂か庭のつゝじの赤きまなざし

獄窓81

亡き友の霊に捧ぐる我が誓ひ思ひ出深し九月一日

獄窓82

谷あひの早瀬流るゝ水の如く砕けて砕く叛逆者かな

獄窓83

叛逆の心は堅くあざみぐさいや繁れかし大和島根に

獄窓84 大審院判決前日の歌1 1926.3.25

色赤き脚絆の紐を引き締めて我後れまじ同志の歩みに

 

獄窓に想ふ

獄窓85

金は有れど要り道は無し思ひつゝ買ふて見たり新らしきペン

獄窓86

我が欲しき紙は無かりき田舎町友を離れし淡きさびしさ

獄窓87

ちくちくと痛む瞳をしかめつゝペンの歩みを追ふもかなしき

獄窓88

縁無しの金蔓眼鏡もあながちに伊達ばかりにはあらざりしかな

獄窓89

誰彼の年を数えて自の子供らしさに気休めを云う

獄窓90

ひそうなる誇りも覚ゆ仲間では一ばん年の若き己を

獄窓91

店あらば一度に年を五ツ六ツ買入れんなど思ふをかしき

獄窓92

我が心嬉しかりけり公判で死の宣告を受けし其の時

獄窓93

嘗めて来し生の苦杯の終りかななどと思はれてそゞろ笑なれき

獄窓94

斯程までかなしき事はなかりけり××とやら沙汰されし時

獄窓95

何や彼やと独り喋りて?がりしいとそゝかしき看守長もありき

獄窓96

とりどりに的を外れし想像で推し量られし我のさびしさ

獄窓97

これと云ふ望みも無けれ無期囚のひねもす寝ねて今日も送りつ

獄窓98

思ふまゝに振舞ふてあり行きがけに強くもあるか無期囚の身は

獄窓99

今日もまた独り黙しつ寝しあればかうもり飛び交ふ夕暮れの空

獄窓100

独り居る春の日永し監獄に繰り返し読むスチルネルかな

獄窓101

春の夜の空は独りで小雨降る遠き水田に蛙鳴くかも

獄窓102

ふらふらと床を脱け出し金網に頬押しつくれば涙こぼるゝ

獄窓103

六才にして早人生のかなしみを知り覚えにし我がなりしかな

獄窓104

意外にも母が来りて郷里より監獄に在る我を訪ねて

獄窓105

詫び入りつ母は泣きけり我もまた訳も判らぬ涙に咽びき

獄窓106

逢ひたるはたまさかなりき六年目につくづくと見し母の顔かな

獄窓107

他の意など何かはせんと強がりの尚気にかくる我の弱さよ

獄窓108

ヴワニティよ我から去れと求むるは只我あるがまゝの真実

獄窓109

此の町の祭礼ならんけだるくも太鼓は響く春の夜すがら

獄窓110

暗き夜に山吹咲きぬあざやかに獄に我が見る夢の如くに

獄窓111

一夜ならで我が夢永久に覚むるなと希ふて寝る心かなしも

獄窓112

朝来れば此の屍に意識戻り鉄格子見ゆ暗く明るく

獄窓113

雀鳴く?き心の朝あけにふと思はるゝ同志の事ども

獄窓114

訣るゝがいと辛かりきいや増しに同志恋ふ思ひが胸に募りて

獄窓115

何がなと話し続けの共に居る時延ばさんと我は焦りき

獄窓116

唯一人女性にてある此の我は四年前から監獄に在り

獄窓117

笑ふこといとまれなりき又しても思ひ出さるゝBの面影

獄窓118
25朝日記事_0003
我十九彼二十一ふたりとも同棲せしぞ早熟なりしかな

獄窓119

家を出て彼を迎えに夜更けたる街を行きたる事もありけり

獄窓120

余りにも高ぶりしかな同志にすら誤られたるニヒリストB

獄窓121

敵も味方も笑はゞ笑へ××××我悦びて愛に殉ぜん

 

「補遺」 黒色戦線社版『獄窓に想ふ』

補遺1

今宵また鉄窓に見る満月の何故かは知らぬ色赤ふして

補遺2

彼もなせしか我にもありき彼の部屋に彼の友とせし大人びし真似

補遺3

人力車梶棒握る老車夫の喘ぎも嶮し夏の坂道

補遺4

人力車幌の中には若者がふんぞり返って新聞を読む

補遺5

資本主義甘く血を吸ふかうもりに首つかまれし労働者かな

補遺6 =手紙5

補遺7

秋たけし獄舎はかなし夜ごと夜ごと鈴虫の音の細ぼそり行く

補遺8

語れかし我にも情けあるものを汝が胸のかなしきひめごと

補遺9

クロバアをレターに封じ友に送るたはぶれのごと真剣のごと

補遺10

たはむれかはた真剣か心に問へど心答へずにっとほほ笑む

補遺11

まじまじと「人」をみつめて憎しみに胸燃やしつつむせび泣く我

補遺12 =手紙14

補遺13

踏みすくみ我は坂道を登り行く足下暗し理智の月影

補遺14

黙々と悩み多げに獄衣きて唖の女囚は働きてあり

補遺15 =手紙20

補遺16

雪降ればどぶも芥も蔽はれて白き仮面は嘲りげに笑ふ

補遺17

霊と肉の二つの心のいさかひを持つこと悲し今の我が身は

補遺18

ペン買はんいやそれは済まんなどと又しても二つの心つかふ苦しさ

補遺19

笛喇叭豆腐屋の鈴にレールの軋り獄に想ふ娑婆の雑音

補遺20

内容はとにも角にも門札は「刑務所」と書く今の監獄

補遺21

彼なりき彼の木賃宿の片隅に国家を論ぜしSにてありき

補遺22

Aと言えばBととらるる此の頃よ胸もて知りぬ理解されぬ悩み

補遺23

彼の友が薬売らんと言ひ出でしを反対せしは我なりしかな

補遺24

同志てふ言葉を他処に権力の腕に抱かれ友は逝きけり

補遺25 =手紙18

補遺26 =手紙22

補遺27

「ふみちゃん」と友は呼ばはり鉄格子窓に我も答へぬ獄則を無視して

補遺2830朝日

この獄に友十八名も居ると言ふ便りを読みし或日の夕暮

補遺29 =手紙8

補遺30

文見れば又もや人は越してありぬ風の吹くままさすらひの子よ

補遺31

ダイナマイト投ぐる真剣さもち床の上に彼はぶちまけぬ冷えし紅茶を

補遺32

飲み余せし湯を投げつるにや身構ひしあはれ陰謀に破れし男女

補遺33

塩からきめざしあぶるよ女看守のくらしもさして楽にはあらまじ

補遺34

手足まで不自由なりとも死ぬといふ只意志あらば死は自由なり

補遺35

さりながら手足からげて尚死なばそは「俺達の過失ではない」

補遺36

殺しつつなほ責任をのがれんともがく姿ぞ惨めなるかな

補遺37

囚の飯は地べたに置かせつつ御自身マスクをかける獄の医者さん

補遺38

皮手錠はた暗室に飯の虫只の一つも嘘は書かねど

補遺39

在ることを只在るがままに書きぬるをグズグズぬかす獄の役人

補遺40

言はぬのがそんなにお気に召さぬならなぜに事実を消し去らざるや

補遺41

狂人を縄でからげて病室にぶち込むことを保護と言ふなり

 
自殺記事朝日
 

手紙六月1

地球をばしかと抱きしめ我泣かん高きにいます天帝の前

手紙六月2

ころころと蹴りつ蹴られつ地球をば揚子の水に沈めたく思ふ

手紙六月3

水煙揚げて地球の沈みなば我ほゝえまんしぶきの蔭に























芙江


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手紙 4

金子文子

<最後の手紙──> 


 ここは地獄のどん底──地下何千尺の坑内に引きずり込まれているような、

威圧された感じと、もうどうにもならない、最後の一点に起たされている──

そうした妾自身を今日と云う今日こそ、真ともに凝視します。  

永い間、いろいろとお世話になったことも、直接間接に御迷惑をかけたことも、

凡ては忘れ難い追憶であり、感謝でもあります。  

だが、今度こそ、その最後の日が来ました。もう二度と法廷にこの醜い身体をさらすことも

ありますまい。と同時に、悲しくもまた淋しくも、元気で朗らかに輝いている貴方がたとお会いする

機会もありますまい。  

お別れです、おさらばです、こう云うと、妙にメランコックに堕りますが、若しこれが、本統に、最後の

最後の手紙だとしたら、妾は、本当に泣いて了うでしょう。  

が、妾の知る限り、予断される限り妾の手紙はこれが最後となるでしょう。

 

 

夏の夜をそゞろに集う若人の 群を思へば、われも行きたし  

白き襟、短き袂にみだれ髪  われによく似し友なりしかな  

今はなき友の遺筆をつくづくと 見つゝ思ひぬ、友てふ言葉  

友と二人職を求めてさすらひし 夏の銀座の石だゝみかな  

肉と霊、二つの心いさかひに  持つこと久し、今の我が身は  

 
凡ては思い出──かすかな感傷を伴って、この世に捨て残して行きます。  

妾自身について云えば、本当に永い間(三年もの間)こうした日の来ることは予測せぬではありませんでした。

ですから、その日のために、幾度か強い強い覚悟と決心とが必要だと思われ、出来るならば、まことに安々と、

平気で眠る様にその来たるべき瞬間を甘受しようと努めていました。 「神」--ある時は、非常に散漫である妾の心を叱って、

これを統率するために、思想に核心を与えるために、「神」を考えぬではありませんでした。

若し神なる観念によって永劫不動な所謂安心が得られるとすれば、この場合、妾はそれで結構でした、が生まれつき、

妾は片意地で、強がりでもあったか知れませんが、神は妾を嘲笑しました。

何故って、神の使徒が寝る目も寝ないで書きのこした著書をば、妾が嘲笑したんですもの──

永い悩みの挙句、妾は、結局私自身を嘲笑して、神や安心やについて、こだわっている自分から、

さっぱりと抜け出して了いました。つまり、神や「死の恐怖」やを忘れて了ったのです。  

それから約二年の歳月は、永いと云えば、永くもあり、短いと云えば、あまりにも短い、そして忽然とこの最後の瞬間に蓬着した様です。  

ふり返って見れば、愚痴が多く、たゞ徒らに煩悶があり、不満があった様です、けれど、

今日となった今日は、案外にも落着いたある種の心の「ゆとり」を獲得していそうです。  

大げさに「悟り」だとか「大悟の境」だとか云うと吃度貴方がたには笑われて了うでしょうけれど、

結局は、悩みの人間は勝利者なんですね、約一年半の間「これではならぬ」とばかり焦心していた妾が、

その焦慮を忘れて了ってそれ以来、二年後の今日、意外にもこんな大それた言葉を書きつけられるんですもの─  

 

 

悲しくもいさかふ心内に見て、  三日ばかりはくつろぎ居しが  

 

 

これは、二年も前の或日の感想です。今は毎日毎日くつろぎすぎているせいか、どうか知りませんが、

これと云ういさかいの心を認めることもありません。  

妾は依然として一介の理想主義者で、今日の妾を諦め切ってもいないし、あまねく世の中に対しても、

これでいいとは決して思っていません。従って所謂世の「曳かれ者の小唄」を歌う気持ちにもなりません。  

これでいいとも思いませんが、これをどうにかしたいと悶えることも致しません。

では運命とかの前に、ひれ伏すかと云うに、それ程大胆な志士的な英雄的な分子は、妾の中に巣食っていそうにありません。

一寸正体の知れない気持ちです。なるようになった訳ですね。来るべき場所に来て了ったのですね。  

この万年筆と、柄にもない妾の「死の勝利」の書物とが、貴方への唯一の遺品となることです。

時折は、かつてこうした不逞な一人間が、女性らしくない人間が存在していた。そしてこの人間が幾分にもせよ、

貴方とかなり永い間、然も深い間交際を続けて来た──と云う事実を思い出して下さい。若しも貴方が、

妾を追憶してくれて、或る時の侘しい妾の気持ちを充たしてくれようとおっしゃられるのなら、

妾の墓石の前にすっきりと、新芽を伸ばしている常盤木の一枝を、捧げて下さいませ。  

 

妾は、咲いては萎んで了う、草花を一体に好みません。

あまり華々しく競って咲き誇る花類を好みません、

奇麗ではない、人目はひかない、だがいつも若々しく、

蒼天に向って、すっきりと伸び上がっている常盤木のその新芽を、

妾はこの上もなく、限りなく愛しています。  

では、新しく伸び上がるであろう常盤木の新芽、

中天に向って雄々しくもまた優しく呼びかけている新芽、

その再び廻り来る日のことを信じて、

妾は貴方に最後のお手紙を、差上げることに致します。 

バカボンド──貴方の幸福の日を祈っています

……では本当にさよなら。
















































 

手紙 3

金子文子愛読書_0001

<九月一日の思出に──>


今日は九月一日──

震災のあったあの日はあの家のあの草原に、積み上げた畳の上で、てんでに訳の解らぬことを言い合い乍ら、

なけなしの米を炊いて食べていた。貴方と××兄と××さん、それにPと妾だったね……

隣の中学生が、ぼんやりと立って聞いていた。  

土手下で、身重の女が、大正琴を弾いていた、広い草原の彼方には、真紅な稲が燃えていた、

月が、夕焼けの太陽のように変って……あゝ物凄い黄昏だったね……

でも何んだか馬鹿に、遠い遠い昔の出来事が、夢の中の出来事の様な気がする……  

▽貴方は此頃とても煙草吸になったのね、今朝来た手紙の中にも。数日前差入れた本の間にも、

煙草の小刻みが、落ちていた、そう思って書物を開くと、何んとなしに煙草臭い、それでも高々バットを吸う、

いやそれより以上吸えない身分なんだから、やかましく言はないとしょうね……  

▽それに貴方は、本当に引越しの名人だ、だから結局、貴方の住所は覚えない方がいい、

なまじっか覚えていると、とんだことになって了う。   

 

とき色の 吸取紙に にじみたる   友の宿居をたどりては読む  

 

▽今日は午前中、二度も三度も、とてもいい目にあった、その一は   

 

窓硝子は 外して写す 帯のさま 若き女囚の 出廷の朝    

 

と云うわけで、かねて頼んで置いた「願の件」で、法廷からお呼び出しになって、

久しぶりに、のんびりとした娑婆の空気を吸った、

その二は   

 

藍の香の 高き袷に包まれて 腑甲斐なき身を、ひとり哀れむ  

 

と云う訳で、腑甲斐ない自分を哀れんではいるものゝ女の浅墓さとでも云うか、

新調の着物に身をくるんだので、誰かに見てもらいたい、見てくれる者もないのか、それとなしに物足りないが、   

 

監視づき、タタキ廊下で××の 同志にふと会う獄の夕ぐれ  

 

その三は、まことにたまさかな、偶然の邂逅であるのに、嬉しくって、夕飯の味を忘れて食べ終った、それ程……、  

だけど、夕方、お役所から帰ってからと云うものは、何故か知れぬ、ばかに娑婆が恋しい。

自嘲してゴロリと横になって見たもの、淡い五燭の電燈の光を、遮切って、澄んだ月影が、高窓の鉄格子を、

くっきりと畳の上に落しているのを、それとなく見つめているとこうして、こんな処に遊び暮らしている──

(妾のすきなせいではないのだけれど──)妾が世間の貴方がたに較べて、惨めな敗北者のように思えて

ならない。何だか世間の貴方がたがねたましい気がする、笑って下さいませ、斯うした気持ちのする時も、

たまにはあるものですよ……さよなら












































































手紙 2

手記表紙

<四月の或る日に──>

「達者でいてくれ、同志はみんな達者だ!」とばかり云わないで、凶いこともたまには知らしておくれ!

差入れまでしてくれた、そして堅実な有望な同志、生粋な妾達の仲間が、二人まで獄死しているぢゃないの?

「達者でいてくれ」、有りふれた古い言葉にも新しい心根が植付けられているとは云え、そうした言葉をきくよりも、

こうした事実を知らされた方が、心が引きしまる──「××の圧制に勇敢にも戦った同志は、斯うして獄に斃れて行く、

……だが妾は? 妾は決して意気地なく牢死等をしてはならない」斯う思ってね、だらけた心根も引きしまる。  

生前に会った同志G兄のガッチリした態度や、顔立ちや、××××に載っていた詩などを思い合わせては、

何とも言われぬ悲痛な気がする。惜しかった、本当に惜しかった、その辺の所謂気取り屋さんとは違って、

あの人は不遜ビラ位で、命を落とす人でなかった。 そう思うと、妾は今、心の中で泣いている胸が一杯になって来て──

こうした時に、心から同じ道を歩む者としての、堅い堅い結束の程が望ましい。売名屋さんや、妥協主義者や、日和見主義の、

そうしたなまくら者の一切を超越して××への復讐を、実感を以って叫んで見たい。その行動を生活したい──

と、貴方がたは、ぐるになって、妾の耳に、娑婆の生々しい血のしたゝっているニュースは入れないように工夫しているのだね──

よろしい、覚えておいで、妾があの世で先廻りをしているから、その時にはきっと、ひどい目に遭わしてやるから……  

ここまで書いていると、数日前貴方に宛てた手紙──

「不逞な夢の報告」が怪しからんと云って、不許になって舞い戻って来た。

いや、夢にまで不逞な真似を演ずるのは怪しからんと斯う云う訳さ、誰かゞ妾の言葉が強烈すぎると云った。

妾には判らない、生活を奪われている者にとっては、そして殊にPのように彼女の夫ニヒリズムに徹底していない妾にとっては……

また改めて書くことにしましょう。  

帯、あんまりボロボロになって捨てて了ったので、贅沢な言草だが、一筋きりしめ代えがないから、妾の荷物の中──

鼠の復讐から無難だったら、帯、縮緬帯揚げ、モスリン下帯、黒い解かし櫛、以上の品々を差入れていただきたい、ではお願いまで。

 

<あたしの宣言として──>  

……貴方からの手紙が来た、そこであまり大きな声では云えないが、上半身裸体のまゝ隅の蒲団の上に腰うちかけて、

早速読み初めた、

「女性としてのあなただもの、娑婆にいた頃の、せめてもの思出に、

娑婆にいた時の物が獄内で用いられゝば、心地よい思出の一つともなろう……」

なる程、懐郷病患者の情が充たされると云うそれだけなら、とも角として、

妾の上に、そんなロマンチックな想像を冠せようとは、

「女性としての妾」を知って「人間としての妾」を知らないものよ、まあ人を見て法を説いて貰いましょうか……  

以上の前提による結論としての蒲団毛布等の差入れでしたら、きっぱりとお断わりしましょう。  

蒲団は、一女性である妾が、(貴方等が妾に与えてくれた資格を逆用して)一人間の資格に於て勇敢に返上する、

そしてこう宣言する。 「貴方がたは、妾を一体なんだと見ているのだろう。女性としてか、人間としてか、女性としてのあなたが……」

妾に対してこんな言葉を用いることをかたく禁じる、妾は女性としてこの世にあったのだろうか、

では女性である妾、いや一女性にすぎない妾と、人間としての妾を圧制していた××との間にどんな交渉があるのでしょうか、──

姦通制裁の撤廃運動でもやる方が、ヨリ正しくはなかろうか──

妾は人間として行為し、生活して来た筈だ。そして妾が人間であることの基礎の上に、多くの仲間との交渉も成立していた筈だ、

そしてそう見ることによってばかり初めて真の同志ではなかろうか、即ち平等観の上に立った結束ばかりが真に自由な、

人格的な結束ではあるまいか。  成程Pと妾との間は、同志としての意外の交渉もあった、だがそれは外のことではない。  

今の妾──今の立場に於ける妾はPの同志でありPは妾の同志であった。

そして妾は今同志としてのPを想う以上に、何の考えも持っては居ない。  

又、同一戦線上に立つ者達の間に、何の性的差別観の必要があろうか、性欲の対象としてても見ない限り、

女とか、男とか云う様な 特殊な資格が、何の役に立つであろう。同じ人間でいいではないか、

そしてそれ以上に何が必要であろうか。  妾はセックスに関しては、至極だらしのない考えしか持っていない。

性的直接行動に関しては無条件なのだ、それと同時に妾が一個人間として起つ時、即ち反抗者として起つ時、

性に関する諸々のこと、男なる資格に於て活きている動物──そうしたものは妾の前に、

一足の破れた草履程の価値をも持っていないことを宣言する。  

今の妾が求めているものは、男ではない、女ではない。人間ばかりである。  

妾は人間として活きている、妾は以上の理由に基いて、「か弱き性を持った」女性として見られることを拒む──

と同時に、その前提の上に立つ諸々の恩恵を、一切キッパリとお断わりする。  

相手を主人と見て仕える奴隷、相手を奴隷として憐れむ主人、その二つながらを、ともに私は排斥する。

個人の価値と権利とに於て平等観の上に立つ結束、それのみを、只それのみを、

人間相互の間に於ける正しい関係として妾は肯定する、従って妾と他人との交渉の一切を、

その基礎の上にのみ求めることを、妾は今改めて、声高らかに宣言する。

 

 



 


 
























































金子文子 手紙 『婦人サロン』掲載

金子文子

金子文子 手紙 『婦人サロン』掲載

金子文子 手紙          
同志栗原一男宛 参考テキスト『婦人サロン』掲載原本複写 データ入力2002.12.29

<四月二十四日> 

三尺の高窓から、本当に春らしい麗かな陽ざしが、三疊の畳の上に、くっきりと影を映して、蒼空の遠い彼方の断面が、疲れた瞳に心地よい憩いを送って来ます。思うともなしにヂット空

の色に見入っていると、郊外の家に、大勢の仲間と一緒に、とりとめもない談笑に送っていた或る日のことや、今はあの世の逝って了った朝代さんと一緒に、柄にもなく芹とりに行った日

のことなど、如何にも忘れ難いロマンチックな思い出となって、甦って来る。

 と──コツコツと重い扉を叩く音が、幻想の世界から妾を引き戻す。  

『四十九号さん-』それは何時もやさしく呼びかけてくれる主任看女さんの声── 

妾は一通の分厚い便りを渡された。云うまでもなく、それは一昨日、貴方と面会した後から、貴方が妾のために骨折ってくれた差入物のことどもを詳しく書いてくれた手紙でした。

妾がそれを読終わるまで、N(仮にこう呼んで置きます)看守さんは、頁をくる妾の手許と、文字を走って行く妾の眼先をヂッと見つめて居られる。

『今日は本当に春らしいいいお天気ですのね……』  

お天気をいろいろと話していた妾は急にお天気に誘惑され、こんないい日には、ゆっくりと庭を散歩したり、何んにも考えずに庭の青草の上に寝ころびたくなったのです--  

そうです。本当に自然の美しい世界は、妾の、いや囚われている者の、先づ第一に要求する世界です、憩い場です、糧です、そして自由な心の洗濯場です。  

庭には雑草が一ぱい生えていた。で妾は、N看守と一緒に、草取りに出ることを許されました。  

 

  うづくまり 庭の日陰に小草引く  

      獄の真昼は、いと静かなり  

 

本当に静かです、屋根瓦の上で雀が囀る位のものですね……

又色々の事が思われます。  

 

  指にからむ 名もなき小草、つと引けば  

      かすかに泣きぬ「われ生きたし」と  

 

指先が慄えて、手を外すこともあります。可哀想になってね……けれどもまた、  

  抜かれまじと 足踏んばって 身悶ゆる  

      其の姿こそ、憎く、かなしく  

 

で、こと更に荒々しく引き抜いて了うこともあります。  

ちょっと痛快ですね、時にはまた--  

 

  うつ向きて 股の下より 人を見ぬ  

      世のありさまを、さかに見たくて  

 

こう云う変った芸当もやって見ます。

 その日は恰度日曜日--免役日でした。女囚が五六人--二名の看守に護られて草をとっていました。遊びがてらにね。  

 

  免役日、若き女囚が結い上げし  

      銀杏返しも今日は乱れず  

 

若い女の髪が乱れていない。当り前のことですが、その当り前のことにも、斯うした天と地とに囲まれていては、云い知れぬ淋しみを誘うものです。

彼女等の傍らに、その着衣と同じ色の躑躅が咲いていました。彼女等は奇麗だと云って立どまりました。

が妾には、  

  ギロチンに 斃れし人の 魂か   

     庭につゝじの 赤きまなざし  

 

斯う思われてなりません。  

二三日前、久しぶりで出廷したら、四谷見附近の立派な邸宅めいた家の門角に、同じ色した躑躅が咲いていました。  

  ブルジョアの 庭につゝじが 咲いて居り   

     プロレタリアの 血の色をして  

 

斯うした観方をする妾を、哀しくさえ思います。美しいものを、只美しいと肯定されない妾自身の心を……  

赤い躑躅の上に、女囚の銀杏返しの上に、遅れ咲きの桜の花弁が、ホロホロと音もなく散りかゝりました。  

 

  花は散る、花は散れどもギロチンに   

      散りて花咲く××かな  

ねえ--こんな時の妾は馬鹿に元気がいいでしょう。

でもね、たまには庭に立ったまゝ、考え込むこともあります。  

 赤い入陽に背を向けて……  

 青い木陰にたゞずめば  

 うすむらさきの悲しみに  

 くろくおのゝくわが心  

 銀の色して鐘がなる  

この意味と、こうしたロマンチックな気持ちが、お解かりですか。

午後四時--妾は今、草取りを終わって心地よく疲れた身体を、二尺と一尺ばかりの小さな机の前に運んでいるのです。

たった一人!妾の好きな生活、たった一人きりでいるその生活--

妾は何時も独りで、こうしてヂッと時の流れを見つめていたい、色々のことが想い出されてね。  

 

   上野山、さんまい橋に より縋り  

      夕刊売りしこともありしが  

 

その頃の、張りつめた、そうです、生きることにと云うより、その日の食をとるために専念していた頃の、自分の姿を省みます。  

 

   籠かけて、夜の路傍に佇みし  

      若き女は、いま獄にあり  

 

この身の転変! 

情熱とはち切れる程の元気に燃え立っていた自分を、自分を、自分ながら驚いて眺めて見ます。  

 

   居眠りつ、居眠りつ尚お 鈴ふりし、  

      五とせ前の、わが心かなし  

 

云い様のない哀れな、痛ましい、しんみりとした気持ちになります。

座ったまゝ眼をつむっていると--  

 

   滝白く、松緑なる ××山の  

      すがたちらつく獄のまぼろし  

 

汽車で、あの妾の故郷である街と山との風景を貴方が見送られるなら、きっとこの言葉を憶い出して下さいまし。

夕方になると暮れる日を惜しんでか、どよめき立つ娑婆の雑音が、鉄の扉と金網越しの高窓から、手にとるように響いて来ます。  

どんなにか、娑婆の夕方は五月蠅ことでしょう。

警笛──電車──自動車──子供、子供、女、籠を下げた、車に乗った急がし気な人間の波が、次から次へ街と角に流れる。  

洪水--色々な頭や帽子や、店先の色とりどりな品物の走馬灯が、妾の目の前でぐるぐると転回します。

黙々と歩いて行く男、物欲しげに店頭に瞳を送って行く女……女、それぞれ自分を自覚しようとしまいと、人は皆只生きるために生きているのですね。

謂わば生きようとする力に引きずられているのですね。  

 

    生きんとて 生きんとて 犇き合う  

       娑婆の雑音、他所事にきく  

 

生きようとして藻掻いている姿や、そのために掻き起される争やを、ヂッと斯う見つめている時、

妾の心は不思議な程にも静かに落ついて「真如」とでも云いたいような気分になるのです。

所謂悲しみをも喜びをも超越し去った淋しい程にも静かなニヒルの境が、此処に展開されるのです。

でもね、やをらこの現実に瞳を落すと、超越ばかりはしてはいられません。

人間的な──そうです、あまりにも人間的な欲求が頭を拡げます。

が妾はこの人間的な欲求をヂッと押えて、素直らしい仮面をかむっていなければなりません。

がこの仮面は、此処にいる妾ばかりではありませんね、凡てが仮面を冠っています。  

考え込むとこの仮面が、仮面舞踏会の役者共と一緒に生きていることが癪にさわって胸がむしゃくしゃに引掻き廻されて本当に厭になります。  

 

    ひと夜ならで、何時ゝゝ 迄も覚むなると

       希いて寝ねる、近頃のわれ  

 

本当にこう思うことがあります。柏蒲団を冠って、人知れず亡き濡れることもあります。

するとね、蒼白い死の世界の怪物の月が、この上にも妾をいぢめつけるのです。   

 

   うら若い 囚われ人は たゞ独り   

       さみしくもいて、身じろかず   

──月影   今宵もまた高窓越しに   黒い格子を寝顔にうつし……  牢舎の夜は、墓場です。

文字通りに死の寝床です。妾の意識も、みんなこの墓場で憩います。が朝ともなればまた、   

 

   朝くれば 此の屍に 心戻り   

       鉄格子見ゆ、暗く明るく  

 

笑ってはいや! 閉ざされた部屋とは云え、朝のすがすがした空気は、淡い乍らも燃え立ってくる希望を、妾の心に喚び覚します。

 が、こうしている、いなくてはならない自分であることを知ると、今日の一日も亦かと暗い気持ちに襲われます。   

 

   わが魂よ、不滅なれなど 希うかな   

        とじ込められて獄にいる身に   

 

何故ってね……   

 

   肉と云う 絆を脱し わが魂の  

        仇を報ゆる すがたなどを想いて  

 

この気持ちは、貴方には恐らくお解かりでしょうね。いやこうしている者の誰もが、一度は思う気持ちでしょうね。

未練がましいと仰云られますか? 妾も亦考えないではありません。こんないさかいを続けている自分の魂も滅んで了って、

人の世の、ありとあらゆる醜と手を切ることが出来るなら、それに越したことはないではないかと……  

何時も食人種のうわ言しか云わない妾が、今日はいやに神妙になって、長い手紙を書きました。さよなら。

 


金子文子 クロニクル1926.7.23

30朝日





1926、7、23 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、栃木駅から徒歩10分余り


新聞報道は八日後にされた。


1926.7.29  朴烈、金子文子の取調べ中の写真をめぐり怪文

1926.7.30  『朝日新聞』「自殺」報道



1926、7、31 『京城日報』大逆犯人朴烈の妻刑務所で自殺す《東京電報》■二重橋事件の大逆犯人として死刑の宣告を受け聖恩に浴して刑一等をを減ぜられ無期懲役に処せられた朴烈の妻金子文子(二五)は栃木県栃木町所在の女囚収容所なる栃木刑務所に服役中であったが去る廿三日の看守の隙をうかがい覚悟の自殺を遂げていたのを程経て看守が発見大騒ぎとなり手当を加えたが効なく刑務所長は右の旨を行刑局長に報告する所あり同刑務所では極力事件を秘密にしている

刑務所では自殺を否認知らぬ存ぜぬの一点張りで事実を極秘に附す《宇都宮電報》■文子の死んだ栃木刑務所は宇都宮刑務所の支所であるが卅日午前零時同刑務所をたづねると三浦看守は、知らぬ存ぜぬの一点張りであるがすでに獄死の知らせが吉川宇都宮刑務所長の手もとにあった事は事実である。吉川刑務所長を訪うと当惑の色を面にうかべて『弱りましたな?兎に角その様なことを伝えられると事件が事件ですから世間の誤解を招きますので是非秘密にして貰いたい、自殺だって?はあ、そんな噂がありますか、噂なら仕方がありませんが然し新聞がその事を掲げることはかえって社会善導の目的に反しますよ』と非常な弱り方であった

死因は絶食か 獄則に反抗していた文子 《東京電報》 ■入力略

妻の死を知らぬ朴烈《東京電報》 ■入力略

叔父との結婚を強られた文子 爛れた母親の犠牲に弄ばれた其の生立 《東京電報》■恐るべき罪をおかし死一等を減ずるの恩命に浴しながら遂に廿五歳を一期に栃木刑務所に自殺を遂げ呪わしき一生を終った金子文子は山梨県東山梨郡諏訪村字下諏訪に私生児として生れ、郷里近くの七里村には今なお実母きく(四六)が娘の心の狂乱に涙ながら暮しておる、彼女は小学校時代は極めて利巧な子供といわれたが九つの時に父に死に分れ運命は幼い彼女を朝鮮に送った。朝鮮で小学教育をおえた彼女は十六歳で一旦郷里に帰り山梨女子師範の入学試験を受けたが身体検査で落第しここに横道への第一歩を踏むに至った、かくて十七歳の時苦学の目的で上京したが彼女の生活は未知の世界に踏み込んで行った『私は信ずることの出来る人を一人も知らない』と彼女がいった如く彼女の生活は虐げられたもので、その間文子の母は彼女を遊廓にうろうとした事もある程で、母親は文子の父なる巡査に死に別れて以来四五度も縁づき文子は家庭愛というものを全然知らなかった、文子が上京を決するまでには母は財産目当てに事実上叔父にあたる僧侶に嫁入らせんとした事もある、かかる悲惨のドン底生活によってすずられた彼女の生活は去る三月廿五日の判決理由書の中にも『被告は幼にして父母の慈しみを受けず荒みたる家庭に生たち骨肉の愛を信ぜず』と書きしるされていたかくて彼女は虚無的思想に走り十一年二月朴烈と知り同五月府下代々木に朴と同棲の生活に甦り大逆を計画するに去る二月大逆事件の公判が大齔院の法廷に開かれた日文子は公判廷に悪びれもなく現れ不敵の態度で裁きを受け遂に死刑を宣告され四月五日に至りはからずも若槻首相は朴および文子に対する減刑の恩命を拝受し彼女は遂に廿五歳の生涯の最後の場所となった栃木女囚刑務所に収容されたのである。

まな娘からお茶子まで 宿命に呪われた金子文子の半生■金子文子の半生は数奇な運命そのものであった、弱い女の身でもって、社会主義者の群に投じ非道の大罪を犯すまでには、一歩踏そこなえば魂は千尋の谷へと齒をうき立たせる程おそるべき女の末路を物語るものがある。しかし彼女の生い立もやはり人間であった。--文子は幼きころは可愛娘として愛でられていた。運命はむごくも世間知らずのかの女の手からその二親を奪いとってしまった。それから文子は朝鮮に流れて京釜線芙江の叔父方にて預けられ、この時には隣近所から羨まれるほどおとなしい雛娘であったがそれから文子は山梨に戻り更に上京して夕刊売子から、旅館の女中、飲食店、活動写真館のお茶子……闇の銀座に或いは魔の上野に人眼を憚る女となり、それが彼女が社会主義者のむれの中に身を投ずる機会を作り、当時『不逞鮮人』を東京で発行していた朴烈と共鳴して大正十一年五月から東京府下代々木富ヶ谷に小さな家を営むに至ったのである。今春文子が獄中から『こんなことになってはじめて自分にかえって見ればもう時はおそかったのですいくら藻掻いても取りかえしようがありません、ただ口惜涙に泣きくれています、(中略)最後に社会に対して申訳がありません』と芙江の友人にあてた手紙を読んでも、彼女は獄中でどれだけ自分を悔いていたことだろう
1926.7.31 






金子文子の遺骨を盗去る追悼会がすんでからやうやく取戻された
31日栃木県栃木町女囚刑務所の共同墓地にて母親に引渡された朴烈の妻金子文子の遺骸は同地で火葬に附し母親きくおよび布施弁護士ら附添ひ東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅にひとまづ引取り警視庁では数十名の警官をもつて万1に備へてゐたが1日午前5時ごろ同弁護士宅に朝鮮同志の一味なるもの訪問し来り同家奥10畳の間に置いた文子の遺骨を持ち去つた、一方府下池袋の自我人社に集合した中西伊之助氏ら廿三名の一派は文子の追悼会を行ふ目的でうち数名の者は布施弁護士邸をたづね母親きくに面会同人を伴ひなほ文子の遺骨の入つてゐると見せかけた大鞄を持つて自我人社に引揚げたがこの一行が同社に着くと同時に池袋の警官隊数十名は直に同社を包囲し前記中西氏ら23名を検束し一方文子の遺骨は前記の如くいづれにか持ち去られたことがわかつたので署長も驚き即刻各方面に刑事を飛ばして文子の遺骨捜索を開始した。その結果やうやく午後6時ごろにいたりかねて注意中の一派の立廻る上落合の前田惇一方に置いてあり同家において彼等1味が追悼会を行つたことまでわかつたので警官隊は直に右遺骨を押収し池袋署に保管し同時に中西等23名を釈放するととゝもに右遺骨持逃げに関する取調べをした池袋暑では右栃木刑務所より文子の遺骨を持帰る際にも付添つてゐた金正根、元必昌の2名が31日夜来布施氏方に詰めてゐたので右2人のうちの金が密かに持出したものであらうといつてゐるが40数名にて警戒しながらマンマと遺骨を持去られ追悼会がをはるまで知らなかつた等は高田署の責任問題なりといはれてゐる(東京)


1926.8.2  大阪朝日新聞


1926.8.16 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く
1926.8.29 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る
1926.8.30

文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と朴廷植釜山でを語る《釜山特電》■獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取るため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子朴燗来(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る『弟には身体の具合が悪いというので面会が出来なかったがいづれまた健康でも恢復すれば面会に行きたいつもりです文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが警視庁から受取ってから別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についているでしょう文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう……子供は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通訳のために連れて行ったままです』 朴廷植は直ちに北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと『京城日報』

文子の遺骨をこっそり慶北へ 同志が埋めはせぬかと 光る慶北警察の目■死んだ金子文子の遺骨はどこに埋めらるるであろうか極めて世間の注目となって居る生前文子と結婚した同じ大罪人朴の生家が、慶北道尚州郡化北面である所から或は同志の仲間によって遺骨を運び来るではないかと道警察部では要視を怠らず警戒して居るが警察官憲の語る所では文子は正式に朴と結婚の手続きをすませ本道に在籍して居るから遺骨を埋めることは適法であろう然し化北面は尚州を距る十数里の山奥にあり交通不便であるから地理を知ったものは尤も不便の地をわざわざ選んで在籍地に埋はすまい、それに朝鮮には墓地令があるから勝手に埋ることもなるまい、何れにしても警戒している《大邱電報》『京城日報』

1926.11.4

<金子文子の遺骨を埋葬 三条件つきで>「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがあるので警察の監視のもとに五日深更朴烈家の墓地である聞慶郡新北面に埋葬することになつた、右につき当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報) 『大阪朝日』

1926、11、5

「金子文子の遺骨は予定の5日午前10時埋葬を変更して午前9時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官2名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面8霊里(聞慶邑内を去る西北2里)に到着し同十一時埋葬に着手し午後三時埋葬を終了した。会葬者は朴烈の実兄朴廷植、実弟朴斗植の2名であった。」  『京城日報』 1926.11.7 夕刊

1926.12.13

訪ふ人もない金子文子の墓 聞えるものは鳥の声ばかり 発掘の憂更になし
日をふるにつれ今は漸く世間の人の注意から遠ざからうとする金子文子の遺骨を埋た身北面8霊里の朴庭植所有墓地は引続きその筋から身北駐在所と連絡をとつて厳重監視を怠らぬ由であるが未だ1回だに墓前を訪ふ者なく尚州山脈につゞく山また山のふもとで耳に入るものは鳥の鳴く声ばかりくらい昼なほ寂しとしたところである。 『京城日報』


金子文子 クロニクル1926.3.6

27東京日日


1926.3.6 <文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して 芙蓉面の住民騒ぐ> 『京城日報』 


■目下東京で公判開廷中の朴烈事件に関しその妻金子文子が七年間も養育されたその叔父忠北清州郡芙蓉面芙江里岩下圭敬三郎に対し同地では同氏を芙蓉面から追出すべしといって同地の住民が騒いでいる興味ある事件がある。事件の内容は文子の叔父岩下は同地の学校組合議員で同地でも相当有力に人であるが、まづ同氏は金子文子の今回の犯罪の動機につき左の如く語っている。『文子は早く両親を失うなど家庭の欠陥があったが、其の後東京正則英語学校に在学中も新山初子などと旺んに交際した従って此の感化のため今回の犯罪を惹起したことも其の動機の一つであるが、更に文子は子供の時から非常に心臓が弱く芙江小学校に在学中も学校で身体検査があるたびに時の校医松本某に「おまえは卅才以上は余命があるまい」と云われこれに対して文子は非常に悲観し其の果てに自暴自棄になったことが今回犯罪の大なる原因である』うんぬんと語っておるが、これに対し同地の人々は文子は叔父岩下家に七年間も養育されたが岩下は常に文子を虐待し何等文子を顧みなかった。これが今回の恐ろしい犯罪を生む原因になったのだとさけび非常に文子に同情し、責任の大半は岩下にあるはずである然るに岩下は学校組合議員の公職にあって何等その責任を感ずる模様もなく又謹慎する模様もなく平然として公職にあるのみならず然も体言壮語して大道を闊歩して恬然としてかえりみるところがない。かかる社会に対して恥を知らぬ人間はよろしくこの芙蓉面から追い出すべきであるというにあるもので日々その声は白熱化しつつあるものであると。



1926.3.13 『京城日報』1926年3月13日捨てた浮世だが淡い執着はある  大逆犯人金子文子が芙江の友へ寄せた手紙

《公州》大逆犯人として社会の耳目を動かした彼の忠北芙江出身の金子文子が或る幼友達に寄せた書信は左の通りであって彼女の内面的情熱の現れとして全く愛の手を離れて生立った経路が如実に物語られて居る ○○さんおなつかしうよく便りして下さった殆ど感慨無量とでも云いたい心のすがたに沈んで居ます。 あの頃の事がそれからそれへと絲丸でも手繰るようにほつれて行って今更乍ら涙ぐまれます。○○さんあの頃のあなたの瞳は私の生活がどんな風に見えたでしよか、或は幸福のものに見えたか知れん、だがねえ○○さん私は心のうち羨んだのか知れん、あなたや、みつちやんやおこつちゃんやそれから進さんや明さん方の自由の生活が……………○○さん其自由さを羨んだ心が私を思想運動の方へ導いて行った、そして今日の結果になった○○○ん私は今無政府主義者として立っているのです(中略)○○さん聴かして下さいね、あなたの御両親の方の消息を……それから若しお知ってなら服部先生斗鳥先生私の叔母(岩下の事)家の様子おむつちゃん善勝さんお巻さん明さん方其後をもあかちゃんが生れたのですってそりゃ御目出度うでも何だかふしぎな気がしますのねえ、桃割を頭のてっぺんへ結っていたあなたが二人の行き方がぐんと違っちゃったね、一緒に遊んだあなたと私と私の公判は多分来年の春頃になるでしよ弁護士は七人計りついて居ります、私自身は断ったのですが外に居る同志や友達がむざむざ殺したくないと残念がるのでまげて弁護士を承諾したのです私は毎日獄内で原稿書きをやって居ます、御覧の通り此ぺんと此紙で○○さんろ私はほんとうになつかしい、どうかこれからもなるべく始終便りして下さい御迷惑にはならんつもりですから私も出来るだけ出しますでは失礼後良人によろしく 市ヶ谷未決監独居場 金子フミ  ○○様   

一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

1926、3、20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号 李春禎? 在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか? 「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 2月106日午前9時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束10数名、警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。

1926、3、23  結婚届けを出す

1926、3、25  死刑判決







1926、3、29 『大阪朝日新聞』〈恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子〉……判決後4日間…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳1合にパン1片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反して、文子は朝は鶏卵2つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をしてきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっていると、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か5分間変り果てた娘の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第1日に着た朝鮮礼装1揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着でよいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝6時に起き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語っていました、……」

1926、3、30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」

1926、4、5  「恩赦」で無期懲役に減刑


金子文子 クロニクル 1925.11

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1925、11末か12初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会


1925、12、3朴烈、金子文子、晋直鉉を私選弁護人として選任

1925、12、6 『東亜日報』記事〈正式結婚、手続き〉

1925、12、7 『東亜日報』記事〈結婚に関して〉

1925、12、11 『朝鮮日報』記事〈獄中結婚は風説〉

1925、12、14 『東亜日報』記事〈書面上の結婚だけだろう〉

1926、1  「朴烈君のことなど 冬日記」中西伊之助『文芸戦線』掲載

1926、1、19 『朝鮮日報』記事〈条件を提出したこと〉

1926、1、20 『東亜日報』記事〈条件を提出したこと〉

1926、2、26  第1回公判、人定質問/再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援/

金子
文子はその夜手記「二十六日夜半」執筆


1926、2、27  第2回公判、金子文子手記朗読か、検事論告死刑求刑

1926、2、28  第3回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

1926、3、1  第4回公判、弁論文子の最終陳述、朴烈はしなかった


金子文子 クロニクル1923.9

金子文子クロニクル 


金子文子愛読書_0001

1923、9、3 朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束

1923、9  不逞社メンバー検挙され始める

1923、10、20 東京地裁検事局、治安警察法違反容疑で朴烈と不逞社メンバーを起訴

1923、10、20 『大阪朝日』記事〈不逞鮮人の秘密結社大検挙〉

1923、10、25 金子第1回訊問調書

1923、10、27 新山初代供述を始める

1923、11、27 新山初代、危篤状態で獄外に出されるも死去、谷中法蔵院に墓碑

1924、1、17 金子文子第2回訊問調書

1924、1、22 金子文子第3回訊問調書

1924、1、23 金子文子第4回訊問調書

1923、1、24 金子文子第5回訊問調書

1924、1、25  金子文子、第6回予審にて朴烈の爆弾入手意図と目的を供述

1924、1、25 金子文子第7回訊問調書

1924、1、29 金子文子第8回訊問調書

1924、1、30  朴烈第3回予審訊問にて金子文子の供述を認める。「自分が話さないと不逞社の仲間に迷惑がかかる」

1924、2、15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴される

1924、3、19 金子文子第9回訊問調書

1924、3、31 金子文子10回訊問調書

1924、4、10 金子、第11回訊問調書

1924、5、14 金子、第12回訊問調書

1924、5、21 金子第13回訊問調書、市ヶ谷刑務所

1924、7、1 『東亜日報』記事「韓けん相は6、24に保釈出獄」「李小岩は1924、6、30早暁ソウルの鍾路警察に検束」

1925、5、4 金子、第15回予審訊問

1925、5、5 金子、第16回訊問調書

1925、5、9 金子、第17回訊問調書、

1925、5、9 金子、第18回訊問調書、

1925、5、21 金子、第19回訊問調書

1925、5、30 金子、第20回訊問調書

1925、6、6 金子、第23回訊問調書、

1925、7、7  予審終結決定

1925、7、17  検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法73条と爆取罰則で起訴

1925、7、18 判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類・物品の授受禁止にする

1925、7、18 金子文子、朴烈第1回予審訊問

1925、8、2  『朝鮮日報』夕刊、記事「不逞社事件予審を終わる」

1925、8、22 朴廷植、証人訊問、大邱地方法院尚州支庁

1925、8、29 金子文子第2回訊問調書

1925、9、2 金子文子第3回訊問調書

1925、9、20  朴烈テキスト〈刑務所消息 不逞の烙印〉『自我人』第2号掲載

1925、9、21 金子文子、第4回訊問調書、東京地方裁判所にて

1925、9、22 金子文子第5回訊問調書、立松懐清

1925、9、30 公判開始決定意見書

1925、10、12 検事総長小山、大審院第2特別刑事部裁判長判事豊島に大審院公判に付すべきという意見書提出

1925、10、28 大審院公判開始を決定

1925、11、11 接見禁止を解く

1925、11、12 朴烈、金子文子、山崎今朝弥を私選弁護人として選任

1925、11、14 朴烈、金子文子、布施辰治、上村進を私選弁護人として選任

1925、11、17 公判準備調書作成のため朴烈に訊問

1925、11、20 朴烈、金子文子、中村高一を私選弁護人として選任

1925、11、21 『東亜日報』記事「大審院、重大犯人の結婚式」

1925、11、25 布施弁護士、結婚届け三通差入署名捺印を求める

1925、11、25 朴烈、金子文子の記事解禁

1925、11、25 『東京日日新聞』夕刊〈震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件〉〈来月八、九両日特別裁判開廷(本日解禁)〈朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿〉写真〈大逆事件の首魁朴烈とその筆蹟〉




1925、11、25 『東京朝日』夕刊〈震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画〉〈近く刑務所で正式の結婚〉〈自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈〉

『京城日報』1925.11.25


『日出新聞』1925.11.25









金子文子に会いに上京した母親

市ヶ谷刑務所陸測図広域




















飯田徳太郎   

 (一)  朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日-三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は皆朝鮮人ばかりであった。李王世子殿下暗殺未遂事件の徐相漢、曩に朴烈と一緒に拘引された張詳重、韓けん相、鄭泰成等もその中に居た。僕は主に中西夫人と知人の噂話をしていた。其処へ布施弁護士の代理の人が、死一等を減ぜられて無期懲役になった旨の通知書を持ってやって来た。一同は夫れを取囲んだ。 「この通知書を朴と文子に見せ度いから何とか取計らって呉れと願ったが、まだ公然と決って居らないのだから、と云って刑務所では頑として聴き容れないのです」

 と彼は当惑顔に言った。 「司法当局から公然と通知して来れば、刑務所の方から両人に通告するし、通知がなければ判決通り死刑なのだ、兎に角弁護人の方から知らせてやる必要はない、と斯う云うのです。」  

弁護士は次に、朴烈がつい先頃手渡したという漢詩を見せた。壮士一度び起って、と云う冒頭で、裁判は愚劣なる劇に過ぎず、と結んだ非常に心惹かれる五言絶句であった。  

その時、一人の朝鮮の女学生と一緒に、四十歳位の丈の低い上品な婦人が一同の方へ歩いて来た。僕は一見して吃驚した。金子文子その人がやって来たと思ったからである。併し軈て、その年齢や、事情を考えてみて、どうしたって文子でないことに気付いた。それ程その婦人は文子に酷似していた。婦人は一同に近づいて、知己の人二三を除いた外の者に丁寧に挨拶した。実は文子の母親だったのである。  

皆は文子の実母を囲んで、改めていろいろと談合した。  

文子の母親は二十三日に郷里の山梨県から上京して、韓吉という青年の紹介で、その友人(鮮人の新聞記者)が宿泊して居る静修館という下宿に身を寄せていたが、二十五日公判廷からの帰途刑務所に立ち寄り、面会所で三四十分間程文子と語り合ったのである。  

文子は毫も未練がないと云った。母親も、無論こうなった上は立派に死んで呉れ、世間態もあるから……と言って二人は互いに抱き合って、今生の別れを惜しんだ--「こんなことなら東京へ出て来なかったらよかったと思いますわ」とも文子は言った相である。でも二人は涙が先に立って語る言葉も無かった。 

母親の頬のあたりにはなみなみならぬ心労の跡が覗割われたが、諦めていると見えて、口辺には断えず人懐っこい微笑を浮かべて居た。今日は更に朴烈に面会した上、夕方の汽車で帰郷するとのことであった。  

市ヶ谷刑務所陸測図該当エリア 

やがて時間が来た。看守が、みんな一度に面会させるからと云って、一同を大玄関へ導いて行った、玄関の石段の上には、黒い紋付を着た朴烈が、戒護主任と看守に守られて立っていた。真先に進んで行った者が、いきなり石段を駆け上って朴に抱き付こうとしたが、看守の手に遮られた。戒護主任は一同を制して、 「今日は一切言葉を交わしては可けない。ただ顔だけ見て引取って貰い度い」  

と言い渡した。一同は仕方なく、帽子を脱って、彼の近くへ集った。朴烈は奇麗に剃刀をあてた蒼白い顔に、元気の好い微笑を浮かべて、一同の挨拶に応えた。 「今日は話は出来ないそうだから、これで我慢して帰って下さい」  

彼はハッキリした、落ちついた口調で語った。すると、僕の背後で微かな吐息が聞こえた。ふと振り向くと、それは一心に朴烈の顔を凝視している文子の母親の口から洩れたのであった。僕は暗然たらざるを得なかった。

「では、これで左様なら、」  

少しも未練気なく朴烈は挨拶をして、手にしていた編笠を被ろうとした。中で、 「朴君、もう会えないのか」  と云った者があった。併し彼は冷たい微笑を崩さなかった。彼の顔色、眼光には、死を覚悟して仕舞った人の、落つい、透明な美しさが籠っていた。  朴烈に別れて玄関を背にした一同の口からは、一斉に深い吐息が吐き出された。その日は文子への面会は許されなかった。晴れた空の北の方で、一抹の黒い雲が湧き出したことをみんなは気遣いながら、揃って刑務所の門を出たのであった。    

(二)  韓その他二三の者は、まだ前に面会する人があるので残り、後の六人だけが文子の母親を見送る為に新宿駅まで歩くことにした。いづれも不如意な生活を送っているものばかりなので、厚くねぎらうことは出来ないが、せめてもう二三日東京に滞在して、見物したり、文子が死刑になるか無期になるかハッキリ決まるのを待ってから帰郷する様にと、皆が母親に勧めたのであるが彼女は一刻も早く帰りたがっているので、仕方なく見送ることにしたのであった。

空がくもって雨が少し落ちて来た。発車時間に間があるので一同で三越の新宿別館へ彼女を案内し、食堂で簡単な昼飯をとった。その間中、婦人は悲しみの色も見せず、総てに満足し、感謝している様に見えた。中西夫人が主となっていろいろ説明する言葉を、さも東京見物に来た老婦人らしく一々嬉しそうに聴きとるのであった。それを見ていると、未だ我々の方が気の弱いことが解って恥じずには居られなかった。

「ほんとに皆さんに色々御心配をかけまして、有難うございました」  

その声のうちにも、文子と共通した朗かさがあった。それから、辺りを憚るように小声で文子の話をしつづけた。

「あれは、子供の頃から頭が傑れてよかったので、私も安心して手離したのです。それに入り組んだ事情もありましたものですから………けれども朝鮮で引取って呉れた伯母がひどく虐待したので、十五六の時逃げて帰りました。それから本人は学校の先生になるつもりで勉強したのですが、それもうまく行かずに東京へ出て来たのです。

私も可愛い娘ですから手許を離したくはなかったのですが、人並勝れて才があったので、大丈夫だと思って東京へ出したのです。すると思いがけなく今度の様なことになりまして……新聞では色々と文子のことを書きますが、私から見れば、親のひいき眼かも知れませんが、怜悧で気の弱い娘でした」  

云いながら母親は声を呑んだ。  時間が来た。見送りに来た朝鮮の人達から、切符と汽車の中の喰べ物などを贈られて、文子の母は汽車に乗り込んだ。最後まで快ちよい微笑を含みながら、一同に挨拶をしていた。その眉のあたりへ雪が頻りに降りかかった。 汽車が出て仕舞ってから、徐相漢が僕の方を振り向いて、 「僕たちは誠意を尽して帰したのですから、向こうも悦んでいた様で、大変うれしく思いました。併し、ああして始終ニコニコしているが、心の裡では激しく泣いているのだと思うと、僕達も悲しくなって来ます」  と暗い声で言った。

張赫宙 (大邱の真友連盟事件の周辺で関わる)

張赫宙


1905.10.13-1998.?.?

チャン・ヒョクチュ、ちょう・かくちゅう、本名張恩重、日本名野口稔(野口桂子と結婚)

慶尚北道大邱に生まれ、幼少時は母に連れられて朝鮮南部を転々とする。大邱高等普通学校(旧制中

学相当)卒業後、1927年から1932年まで慶尚北道の山村で教員生活、習作を書く。学校時代からアナ

キズムに共鳴する。加藤一夫を尊敬し、アナキズムから農本主義に傾きつつあった雑誌『大地に立つ』

にカンパをしていた。大邱普通学校訓導の時、加藤から「小説依頼の手紙が届き」1930年10月、『大地

に立つ』2巻10号に「白楊木」(ぽぷら)を掲載、朝鮮の小作人の悲哀を描く。1931年、<文芸戦線>を

脱退した黒島伝治が主宰する『プロレタリア』第2号、1931年1月発行に大邱から「同志通信」を送り『戦記

』グループに接近、アナキズムから離れ始める。1932年4月「餓鬼道」が『改造』の懸賞に当選、日本文

壇にデビュー。「朝鮮の貧苦の情況を広く世間に知らせたい」と貧農の団結と改善要求、逮捕者を出し

ながらも敢然と官憲に立ち向かう姿を描く。しかし「私はマルキストではなくアナキストでした」「蔵原惟人

、小林多喜二、前田河廣一郎のプロ文学の衣をそっと借り着、しかし1年半執筆に行き詰まる要因」と後

に『文藝』誌で記述1939年11月号。1932年6月、大宅壮一と同行し、当時日本プロレタリア作家同盟委

員長、江口渙に会うが、同盟には入らず。「追はれる人々」(1932年6月脱稿)『改造』1932年9,10月号掲

載、朝鮮小作人に対する東拓の管理と抑圧を描写、エスペランチストの大島義夫が注目、張に手紙を

送り翻訳了解を得、張からは「自叙略伝」「朝鮮文学小史」という原稿も届き、大島は高木弘という筆名で

39頁のエスぺラント語訳小冊子としてを千部刊行。大部分をヨーロッパに発送したという。エスペラント語

訳を基にポーランド語にも重訳される。1933年1月『文芸首都』が創刊され同人となる。張は発行人保高

徳蔵の家に寄宿したこともある。東京へ数度往復。この頃「奮ひ起つ者」『文芸首都』1933年9月号掲載

、は発禁処分、「少年」は1933年頃、エスペラント語に翻訳される。横光利一に影響を受け「權といふ男」

『改造』1933年12月号を発表。朝鮮において「家庭的に、色々な波錠に蓬着」し1936年以降、恋愛もあり

日本に定住、著作活動に専念。1936年7月、「張赫宙歓迎宴」が旧日本プロレタリア作家同盟系や進歩

的作家が集まっていた文学案内社主催により銀座で開かれる。宇野浩二、青野季吉、藤森成吉、徳永

直、山本実彦、貴司山治、林芙美子ら40名が集まる。「日本文壇初の朝鮮人作家という異彩」許南薫(

ほ・なむふん)。1936年9月、江口渙、村山知義らと『文学案内』誌の編集顧問となる。1937年、創作路線

を定められず苦悩、村山知義の依頼で戯曲「春香伝」を執筆。1937年、東大生であった金史良が張を

訪問する。1937年頃から多くの単行本を刊行。1945年までに30冊ほどの単行本、長篇小説15篇、中・短

編50篇が発表されている。朝鮮語作品の発表時期は1933年から1941年の10年に満たない。1938年に

は張、村山、金史良の3人の協力関係が成立。

1939年、『文藝』誌に「朝鮮の知識人に訴ふ」掲載。<朝鮮語では範囲が狭小><外国語に翻訳される

機会も多い>という「朝鮮語消滅論」であった。祖国の朝鮮文壇から排除される契機となり、親日派宣言

であった。戦後になり、この時期の言動が韓国<在日韓国朝鮮人も含めて>と日本の両側から痛烈に

批判される。作家としての居場所を喪失。(許南薫)

以降、旧「満州」「北支」への視察・取材旅行を数度敢行、各種座談会、雑文を通じ時局迎合発言が多く

なる。『緑旗』1943年1月号に「ある篤農家の述懐」を掲載、『緑旗』は朝鮮総督府の御用雑誌であり、親

日派の拠点。1944年1月、『岩本志願兵』を刊行。興亜文化出版。それらの作品は朝鮮総督府の移民政

策や皇民化政策を美化するものであった。(高崎宗司)「国策物、軍国主義と内鮮一体論に同調」(許南

薫)1945年5月、満鮮文化社の招聘で間島、「北支」方面へ取材旅行に出発、この間に東京の自宅が全

焼、帰路につき日本到着直後「終戦」、長野に疎開、永住を決意。1946年、週刊『平民新聞』に(日本ア

ナキスト連盟刊)小説「意中の人」を連載(「意中の人」第1回 張赫宙 『平民新聞』第3号1946年8月7日

、辻まこと挿絵、第19回25号4月30日で最後)

編集局「作者張赫宙君の仕事の都合で打ち切り」30号6月18日。依頼の経緯と打ち切りの他の理由は

不明。1947年、疎開から戻り埼玉の高麗神社に近い現日高市に住み続ける。1951年7月、最初の結婚

で朝鮮に残した子供たちの安否確認もあり毎日新聞の後援で戦争時の朝鮮を訪れ取材、「鳴呼朝鮮」

執筆。1952年10月、日本に帰化、野口稔が本名となる。1953年まで張赫宙の筆名を通した。1954年、自

伝的長編「遍歴の調書」は半生を総括、1975年、「嵐の詩(うた)」で再び自伝的長編を執筆。1977年、「

韓と倭」(からとわ)1980年、「陶と剣」(やきものとつるぎ)を発表。白川豊によると自己の出自たる朝鮮と

日本の歴史的関係に対する関心の回帰をノンフィションとした作品、1989年、エッセイ「マヤ・インカに縄

文人を追う」は民族のルーツ探索へと向かう作品、また英文小説を試み、長編小説4篇を構想、1991年。

一冊はインドの出版社から刊行「果てし無き旅路」として日本語版も構想されたという。湾岸戦争時、中

東地域に取材もしたという。

日帝の植民地政策に迎合したこともあり、白川が研究するまで張の作品総体は分析、評価する対象とは

ならなかった。川村湊は張赫宙が日帝に協力した親日派文学者であることは疑う余地がないと述べなが

らも「抵抗」と「屈従」の二項対立ではなく、精神の大きな振幅、膨大な灰色の領域、心の振れ幅、日本

語で書くことの真剣で深刻な葛藤を考察、張赫宙は、もともと朝鮮と日本という地域的、民族的、文化的

差異の中にこそ、自分の居場所を見出していた作家というべきなのだ、と評価。張赫宙自身としては、自

らの朝鮮人性は疑いもないものであって、日本国籍となっても消すことのできない<朝鮮人性>や<民

族性>が張赫宙にとっては問題ではなかったのか、と述べる。 (亀田 博)


参考文献

張赫宙「白楊木」「追はれる人々」『土とふるさとの文学全集3』(編集人、臼井吉見、小田切秀雄、水上勉等)家の光協会、1976年11月発行

張赫宙『わが風土記』(原本復刻版「文化人の見た近代アジア」4)ゆまに書房刊、2002年9月発行、解説、許南薫「張赫宙著『わが風土記』」

張赫宙「私の小説勉強」『文藝』改造社刊、1939年11月号

『平民新聞』日本アナキスト連盟刊、1946年発行

張赫宙「祖国朝鮮に飛ぶ」(第一報)『毎日情報』1951年9月号

白川豊『植民地期朝鮮の作家と日本』大学教育出版(岡山市)1995年7月発行

川村湊「金史良と張赫宙 植民地人の精神構造」、高崎宗司「朝鮮の親日派 緑旗連盟で活動した朝鮮人たち」『岩波講座「近代日本と植民地」6巻<抵抗と屈従>』

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芙江と金子文子 2008年訪問 小学校の裏庭

芙江裏山

金子文子は予審法廷で発言している。「如何なる朝鮮人の思想より日本に対する叛逆的気分を除き去ることは出来ないでありましょう。 私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思うと時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」一九二四年一月二三日第四回訊問調書。

 

 彼女の意思が凝縮された表現である。囚われても文子は国家へ叛逆する意思を持続していた。ここで文子が「他人事とは思い得ぬ」と語っているのは金子文子の九歳から一六歳までの朝鮮における生活体験を重ねたからである。

 

 その体験を自伝『何が私をこうさせたか』(一九三一年七月発行、春秋社刊、栗原一夫編集)で存分に語り同書の四分の一をあてている。そこには朝鮮において生活面で受けた虐待と希望なき日々が回想されている。

 

「台山は叔母の家の持ち山だった。叔父が以前鉄道に勤めていた頃買って置いたとかいう山で、栗の本が植え込まれていた。」

 

「朝鮮の独立騒擾の光景」を目撃したのは芙江の村であった。

 

 二〇〇八年の韓国訪問の目的の一つに、この山を歩くことを計画に入れていた。芙江という慶尚南道の小さな町に位置している。

「先生が、《あれは山ではない、丘だ》と定義をした事がある位で、この山は決して高い山ではなかったが、それでも位置がいいので頂上に登ると、美江が眼の下に一目に見える」

 

 京畿線の芙江駅に着く。韓国各地も日中の気温は三〇℃前半であり、日本と変わらない。町中を数分歩くだけでも汗をかく。台山への登り口が明示されているわけではない。町の端にある中学校の敷地から登れると見当をつけた。

 

 坂道を登りきった門から校庭を抜け真ん中にある石段を上がった。校庭からは望めなかった畑が広がり後背地に薮と林がある。強引に薮にはぃった。引掻き傷と襲いかかる薮蚊で剥き出しの腕、脚が腫れてくる。汗が膜になり身体を包み込む。空気が動かない。薮が続くようならば引返し別の取り付き口を捜すしかない。

 

「木の枝に褪紅色の栗の実が、今にも落ちそうにイガの外にはみ出している。時には草一本ないところに出るかと思えば時には深い草叢のところに出くわした」

 少しだけ進むと開けた窪地があり抜けて均された狭い道と出会えた。道を上に進む。

 尾根筋の道を進むと林の中でピークと思われる地点に到った。昨年一二月に探索した錦江が望める。

 

……頂上に登ると、芙江が眼の下に一目に見える。……西北に当っては畑や田を隔てて停車場や宿屋やその他の建物が列なっている。町の形をなした村だ。中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ。  

カーキイ服の憲兵が庭へ鮮人を引出して、着物を引きはいで裸にしたお尻を鞭でひっぱたいている。ひとーつ、ふたーつ、憲兵の甲高い声がきこえて来る。

打たれる鮮人の泣き声もきこえるような気がする。それはあまりいい気持ちのものではない。私はそこで、くるりと後に向きかわって、南の方を見る。……南画に見るような景色である。……山に暮らす一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。その日ばかりが私の解放された日だった。」

 

 金子文子は日本国家が朝鮮を侵略し植民地化している現実を自身の七年間の体験を通して充分に感受していた。両親から見離されたという体験、父方の親戚から受けた虐待を被害者としての意識にとどまることなく社会の矛盾としてとらえようと苦闘してきた。

 

 金子文子は十代前半にしてこの朝鮮の地で自殺を試みたが寸前で朝鮮の自然との触れあいから「生き残る」ことを喚起され、思いとどまった。「世界は広い」と思い至り自己の力で生きることに回帰する。前述の自伝で、文子は栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を語っている。同時に頂上から村を眺め朝鮮の人々が憲兵から虐げられている現実にも直面したわけである。

 

 

 

 一〇代半ばの金子文子にとって自身の自由がない生活から免れ得なかったと同じく日本の軍人による朝鮮の人々への暴圧に対しても目をそむけるしかなかった時期である。そして文子は朝鮮の自然に触れ自由な自分を取り戻そうとし「……そうだ、私は自分の生きていたことをはっきりと知っていた」と虐待に支配された精神からの解放を自らなしとげようとしていた。

 

 現在の芙江は錦江の近くにIT企業の工場が誘致され、中層アパートが数棟そびえ、宿屋がモテルに変わっていた。

しかし駅は素朴で停車場にふさわしく古くからの居住地域には村の趣きが僅かにある。

 

 

「何だか腹の底から力が湧い来るような気がして、私は思はず《おーい》と誰にと言うのではなく叫んでみる。けれど無論誰もそれに答える筈はない。私は独り山にいるのだ。」

 

 

 

彼女が精神の自立を獲得したかつての台山は開発で削られることもなく芙江の町を見守っていた。

 

 その山の林の中の道を往きつ戻りつした。

 

「ゆったりとした気分になって草の上にごろりと横わって、空を眺める。深い深い空だ、私はその底を知りたいと思う。私は眼を閉じて考える。涼しい風が吹いて来る。草がさわさわと風に鳴る。」

 

 九〇年前の「叫び」に応答が可能であるか「台山」を彷徨し自立を求めた精神の揺籃の場と深い空を探した。

 

 
































































































































 

金子文子と朝鮮 『彷書月刊』2006年2月号執筆改定原稿

金子文子

 金子文子は予審法廷で発言している。「如何なる朝鮮人の思想より日本に対する叛逆的気分を除き去ることは出来ないでありましょう。 私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思うと時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」一九二四年一月二三日第四回訊問調書。


 金子文子の意思が凝縮された表現である。囚われても文子は国家へ叛逆する意思を持続していた。ここで文子が「他人事とは思い得ぬ」と語っているのは文子の九歳から一六歳までの朝鮮における生活体験を重ねたからである。

 文子はその体験を自伝『何が私をこうさせたか』(一九三一年七月発行、春秋社刊、栗原一夫編集)で存分に語り同書の四分の一をあてている。そこには朝鮮において生活面で受けた虐待と希望なき日々が回想されている。

 大審院判決の理由においてすら「......私生子として生れ幼にして父母相次で他に去り孤独の身と為り其の慈愛に浴するを得ず朝鮮其の他各所に流寓して備に辛酸を嘗め......」と断定され、朝鮮で発行されていた日本語新聞『京城日報』(一九二六年三月六日付)は〈文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して、芙蓉面の住民騒ぐ〉と報道。「同地の人々は文子は叔父岩下家に七年間も養育されたが岩下は常に文子を虐待し何等文子を顧みなかった。これが今回の恐ろしい犯罪を生む原因になったのだとさけび非常に文子に同情し、責任の大半は岩下にあるはずである…」。

 金子文子が「恐ろしい犯罪」に至る原因を文子が預けられた岩下家(父方の親戚)による虐待が原因だという住民の主張を報じている。


「恐ろしい犯罪」とは大逆罪のことである。大審院での死刑判決を前にして、朝鮮での侵略を支える日本語新聞ですら「恐ろしい犯罪」と表現しつつも原因を養子先の虐待に求めた。しかし、これら侵略国家を代表する大審院、あるいは侵略の末端にいる住民たちの判断を越える意思を文子は獲得していた。


 金子文子は日本国家が朝鮮を侵略し植民地化している現実を自身の七年間の体験を通して充分に感受していた。両親から見離されたという体験、父方の親戚から受けた虐待を被害者としての意識にとどまることなく社会の矛盾としてとらえようと苦闘してきた。文子は十代前半にして朝鮮の地で自殺を試みたが寸前で朝鮮の自然との触れあいから「生き残る」ことを喚起され、思いとどまった。

「世界は広い」と思い至り自己の力で生きることに回帰する。前述の自伝で、文子は栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を語っている。同時に頂上から村を眺め朝鮮の人々が憲兵から虐げられている現実にも直面する。

「……頂上に登ると、芙江が眼の下に一目に見える。……中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ。カーキイ服の憲兵が庭へ鮮人を引出して、着物を引きはいで裸にしたお尻を鞭でひっぱたいている。

 ひとーつ、ふたーつ、憲兵の甲高い声がきこえて来る。打たれる鮮人の泣き声もきこえるような気がする。それはあまりいい気持ちのものではない。私はそこで、くるりと後に向きかわって、南の方を見る。……南画に見るような景色である。……山に暮らす一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。その日ばかりが私の解放された日だった。」




 一〇代半ばの金子文子にとって自身の自由がない生活から免れ得なかったと同じく日本の軍人による朝鮮の人々への暴圧に対しても目をそむけるしかなかった時期である。そして文子は朝鮮の自然に触れ自由な自分を取り戻そうとし「……そうだ、私は自分の生きていたことをはっきりと知っていた」と虐待に支配された精神からの解放を自らなしとげようとしていた。



 この少女期より文子が擁していた自立に向けた意思は東京で唯一の女友達で同志でもある新山初代、そして朝鮮と日本のアナキストたちとの交流を経ていっそう強まり、究極の平等主義、天皇の存在の否定という思想につながる。朴烈と出会い、彼に力強さを見出す。

「私日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に偏見なんかもっていないつもりですがそれでもあなたは私に反感をおもちでしょうか」(前出、自伝)と同志として交際を始めた。

 そして二二年の春、世田谷の池尻で同居、七月に創刊された運動紙『黒濤』を朴烈と共に発行、執筆もする。

 一一月にはアナキズムに関心がある朝鮮と日本の同志たちと黒友会を結成。朴烈との新たな運動誌『太い鮮人』にも執筆、第二号に「所謂不逞鮮人とは」朴文子。

 『現社会』と改題し「在日鮮人諸君に」金子ふみ「朝鮮○○記念日」金子ふみ。二三年三月、二人は代々木富ヶ谷に移り不逞社を組織し借家が事務所を兼ねる。 五月の不逞社第一回例会は朝鮮の運動がテーマ、六月の例会は中西伊之助出獄歓迎会となる。八月には黒友会主催で「朝鮮問題演説会」が神田基督教青年会館にて開かれる。文子の視点は植民地下、虐げられし朝鮮の人々に向いていた。


 飯田徳太郎というアナキスト詩人が大審院判決後、金子文子に面会に訪れた人たちのことを語っている。

「朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七、八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は皆朝鮮人ばかりであった。……」

「文子に会いに上京した母親 」(『婦人公論』二六年五月掲載)。

 ここには金子文子、朴烈の裁判を支えていた人々が主として朝鮮の同志であったことが語られている。


 飯田が一時同居していた平林たい子も文子から「リャク」を教わったという回想を書いている。

「私をはじめてそういう所へ連れて行ってくれたのは、死んだ、朴烈事件の金子文子であった。……私達は、銀座の××時計店へずかずかと入って行った。

〈人参を買って下さい〉と文子氏は唾を飛ばす様に言った。

……〈何? いらないって? 私を誰と思っているんだい?〉文子氏はそんな言葉で言って『不逞鮮人』という雑誌を包みの中から出しかけた。

……〈朴文子ですよ〉と文子は落ち付いたものだ。……」

(「金が欲しさに」初出二八年『婦人公論』一二月、『平林たい子著作集』収載)。


 リャクとは会社、商店回りをして運動への協賛金を強要することである。金子文子は朴文子と名乗り、朝鮮人参を売っている。朴烈との共同した日常の活動が表現されている。

 植民地下の朝鮮、そして今の韓国の人々の金子文子への思いは遺骨の移動と墓碑の変遷に象徴されている。

 文子の墓碑は八〇年の間に四度の変遷があった。

 一九二六年七月、刑務所で死亡直後、当局により刑務所の共同墓地に土葬された。そこに建てられたのは細い木の墓標であった。

 しかし一週間後、死因を解明しようとする同志(朝鮮のアナキストが主であった)、布施辰治弁護士、仲間の医師、母親によって遺体は発掘、検分の後、栃木の現地で火葬され東京に戻る。ところが文子の追悼を絶対にさせないという警視庁の強権により遺骨は同志たちの手から奪われた。

 朴烈の兄朴廷植が朝鮮ムンギョンから遺骨を引取りにきたが警視庁は奪った遺骨を直接渡さずに朝鮮の警察に小包便で送り、朝鮮に戻った兄に警察から引き渡すという遺骨を徹底して管理した。当時の新聞も報じている。



「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがある……当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報『大阪朝日』 二六年一一月五日付)。

 このような官憲の監視下、墳墓として盛り土はされ五〇年近く朴家によって守られていたが墓碑はなく存在は知られていなかった。韓国のかつてのアナキスト同志の間で再び金子文子の存在が注目されたのは作家瀬戸内晴美が「余白の春」の執筆過程でこの墳墓へ関心もったことによる。

 関連した踏査が契機となり七三年四月、韓国のアナキストは墓碑建立準備委員会を設立し、趣旨文を作成した。「……我々の日帝への三六年にわたる抗日史上、どんな事件にも比べることのできない壮烈で痛快で悲壮なことであった。…… すばらしい、本当にすばらしい。……金子文子の墓は荒廃していた。一昨年、数名の同志が現地を踏査して、その姿にひどく心が痛み、苦しさを感じた。……小さな墓碑を一つ立てたらという考えで同志たちの意志が一致した。」(『韓国アナキズム運動史』より。)

 実際には二メートルに及ぶ大きな石の墓碑が建てられ先の趣旨文が刻まれた。

私自身は一九九九年一一月、韓国ムンギョン市の山中にあるこの墳墓を訪れ草木で覆われた山道を辿った。

 そして二〇〇三年、あらたに移葬するという話があり一〇月七日、韓国ムンギョン市の人たちの訪問を東京で受けた。ムンギョン市郊外に朴烈と金子文子を記念する施設と二人の墳墓のための土地を確保し記念公園にする、二人に関する史料、文献を集めたいという趣旨であった。

 そして〇三年一一月、移葬され、記念館、記念公園の起工式は〇四年一〇月一六日に開かれた。


 〇四年一一月、再びムンギョンを訪問した。山麓に移された文子の墳墓は広く大きく整備されていた。記念館建設に向けて山すその敷地が整地され始めていた。

 二〇〇〇年二月には韓国のテレビ局により金子文子も対象となったドキュメンタリー番組が放映されている。三月一日独立運動記念特集「PD手帳」『日本人シンドラー布施辰治』。その内容は布施弁護士を中心に描いているが朴烈「事件」も大きな比重を占めている。交流がある研究者のイ・ムンチャンさん(当時・国民文化研究所会長。『日本アナキズム運動人名事典』編集委員が番組内で解説。

 〇五年一月一三日、「布施辰治・自由と人権」シンポジウムが明治大学主催で開かれパネラーの一人としてイ・ムンチャンさんがソウルから招請された。朴烈・金子文子との関係、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。翌日イ・ムンチャンさんを金子文子の故郷といえる当時の諏訪村(現山梨市牧丘町)へ案内、懇談会が開催され金子文子を通じて韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした交流となる。牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りした金子こま江さん(〇五年六月病死、享年八六歳)宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。


 韓国での朴烈や金子文子、二人の弁護人であった布施辰治への関心が強まるのと共鳴するかのように山梨では金子文子の生き方がクローズアップされてきた。

 〇四年七月二三日には牧丘町の金子文子の歌碑前で追悼集会が開かれ初めて地域住民を中心に五〇人余りが参加、私も赴いた。さらに一一月二六日、「金子文子の生涯と思想」と題された生誕百周年記念事業が開かれパネラーの一人としてシンポジウムに参加。主催は山梨県生涯学習センターと山梨文芸協会。平日の午後開催であったが一五〇名あまりの参加者があった。 〇五年、山梨県生涯学習推進センター主催による山梨学講座「日本とアジアの架け橋になった人々」が開講。一〇月八日、第四回のテーマは「日本・朝鮮を結ぶ文子の思想と活動」、再びパネラーとして参加した。



 ムンギョン市の朴烈・金子文子記念館の完工は来年の予定だが、イ・ムンチャンさんは朴烈・金子文子が共に活動したことをふまえ、現在とこれからに向けた韓国と日本の人々の交流の場となるよう望んでいる。
















































































































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