金子文子

 金子文子は予審法廷で発言している。「如何なる朝鮮人の思想より日本に対する叛逆的気分を除き去ることは出来ないでありましょう。 私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思うと時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」一九二四年一月二三日第四回訊問調書。


 金子文子の意思が凝縮された表現である。囚われても文子は国家へ叛逆する意思を持続していた。ここで文子が「他人事とは思い得ぬ」と語っているのは文子の九歳から一六歳までの朝鮮における生活体験を重ねたからである。

 文子はその体験を自伝『何が私をこうさせたか』(一九三一年七月発行、春秋社刊、栗原一夫編集)で存分に語り同書の四分の一をあてている。そこには朝鮮において生活面で受けた虐待と希望なき日々が回想されている。

 大審院判決の理由においてすら「......私生子として生れ幼にして父母相次で他に去り孤独の身と為り其の慈愛に浴するを得ず朝鮮其の他各所に流寓して備に辛酸を嘗め......」と断定され、朝鮮で発行されていた日本語新聞『京城日報』(一九二六年三月六日付)は〈文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して、芙蓉面の住民騒ぐ〉と報道。「同地の人々は文子は叔父岩下家に七年間も養育されたが岩下は常に文子を虐待し何等文子を顧みなかった。これが今回の恐ろしい犯罪を生む原因になったのだとさけび非常に文子に同情し、責任の大半は岩下にあるはずである…」。

 金子文子が「恐ろしい犯罪」に至る原因を文子が預けられた岩下家(父方の親戚)による虐待が原因だという住民の主張を報じている。


「恐ろしい犯罪」とは大逆罪のことである。大審院での死刑判決を前にして、朝鮮での侵略を支える日本語新聞ですら「恐ろしい犯罪」と表現しつつも原因を養子先の虐待に求めた。しかし、これら侵略国家を代表する大審院、あるいは侵略の末端にいる住民たちの判断を越える意思を文子は獲得していた。


 金子文子は日本国家が朝鮮を侵略し植民地化している現実を自身の七年間の体験を通して充分に感受していた。両親から見離されたという体験、父方の親戚から受けた虐待を被害者としての意識にとどまることなく社会の矛盾としてとらえようと苦闘してきた。文子は十代前半にして朝鮮の地で自殺を試みたが寸前で朝鮮の自然との触れあいから「生き残る」ことを喚起され、思いとどまった。

「世界は広い」と思い至り自己の力で生きることに回帰する。前述の自伝で、文子は栗拾いのため里山に登った体験から一時の自由を語っている。同時に頂上から村を眺め朝鮮の人々が憲兵から虐げられている現実にも直面する。

「……頂上に登ると、芙江が眼の下に一目に見える。……中でも一番眼につくのは憲兵隊の建築だ。カーキイ服の憲兵が庭へ鮮人を引出して、着物を引きはいで裸にしたお尻を鞭でひっぱたいている。

 ひとーつ、ふたーつ、憲兵の甲高い声がきこえて来る。打たれる鮮人の泣き声もきこえるような気がする。それはあまりいい気持ちのものではない。私はそこで、くるりと後に向きかわって、南の方を見る。……南画に見るような景色である。……山に暮らす一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。その日ばかりが私の解放された日だった。」




 一〇代半ばの金子文子にとって自身の自由がない生活から免れ得なかったと同じく日本の軍人による朝鮮の人々への暴圧に対しても目をそむけるしかなかった時期である。そして文子は朝鮮の自然に触れ自由な自分を取り戻そうとし「……そうだ、私は自分の生きていたことをはっきりと知っていた」と虐待に支配された精神からの解放を自らなしとげようとしていた。



 この少女期より文子が擁していた自立に向けた意思は東京で唯一の女友達で同志でもある新山初代、そして朝鮮と日本のアナキストたちとの交流を経ていっそう強まり、究極の平等主義、天皇の存在の否定という思想につながる。朴烈と出会い、彼に力強さを見出す。

「私日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に偏見なんかもっていないつもりですがそれでもあなたは私に反感をおもちでしょうか」(前出、自伝)と同志として交際を始めた。

 そして二二年の春、世田谷の池尻で同居、七月に創刊された運動紙『黒濤』を朴烈と共に発行、執筆もする。

 一一月にはアナキズムに関心がある朝鮮と日本の同志たちと黒友会を結成。朴烈との新たな運動誌『太い鮮人』にも執筆、第二号に「所謂不逞鮮人とは」朴文子。

 『現社会』と改題し「在日鮮人諸君に」金子ふみ「朝鮮○○記念日」金子ふみ。二三年三月、二人は代々木富ヶ谷に移り不逞社を組織し借家が事務所を兼ねる。 五月の不逞社第一回例会は朝鮮の運動がテーマ、六月の例会は中西伊之助出獄歓迎会となる。八月には黒友会主催で「朝鮮問題演説会」が神田基督教青年会館にて開かれる。文子の視点は植民地下、虐げられし朝鮮の人々に向いていた。


 飯田徳太郎というアナキスト詩人が大審院判決後、金子文子に面会に訪れた人たちのことを語っている。

「朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七、八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は皆朝鮮人ばかりであった。……」

「文子に会いに上京した母親 」(『婦人公論』二六年五月掲載)。

 ここには金子文子、朴烈の裁判を支えていた人々が主として朝鮮の同志であったことが語られている。


 飯田が一時同居していた平林たい子も文子から「リャク」を教わったという回想を書いている。

「私をはじめてそういう所へ連れて行ってくれたのは、死んだ、朴烈事件の金子文子であった。……私達は、銀座の××時計店へずかずかと入って行った。

〈人参を買って下さい〉と文子氏は唾を飛ばす様に言った。

……〈何? いらないって? 私を誰と思っているんだい?〉文子氏はそんな言葉で言って『不逞鮮人』という雑誌を包みの中から出しかけた。

……〈朴文子ですよ〉と文子は落ち付いたものだ。……」

(「金が欲しさに」初出二八年『婦人公論』一二月、『平林たい子著作集』収載)。


 リャクとは会社、商店回りをして運動への協賛金を強要することである。金子文子は朴文子と名乗り、朝鮮人参を売っている。朴烈との共同した日常の活動が表現されている。

 植民地下の朝鮮、そして今の韓国の人々の金子文子への思いは遺骨の移動と墓碑の変遷に象徴されている。

 文子の墓碑は八〇年の間に四度の変遷があった。

 一九二六年七月、刑務所で死亡直後、当局により刑務所の共同墓地に土葬された。そこに建てられたのは細い木の墓標であった。

 しかし一週間後、死因を解明しようとする同志(朝鮮のアナキストが主であった)、布施辰治弁護士、仲間の医師、母親によって遺体は発掘、検分の後、栃木の現地で火葬され東京に戻る。ところが文子の追悼を絶対にさせないという警視庁の強権により遺骨は同志たちの手から奪われた。

 朴烈の兄朴廷植が朝鮮ムンギョンから遺骨を引取りにきたが警視庁は奪った遺骨を直接渡さずに朝鮮の警察に小包便で送り、朝鮮に戻った兄に警察から引き渡すという遺骨を徹底して管理した。当時の新聞も報じている。



「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがある……当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した」(京城電報『大阪朝日』 二六年一一月五日付)。

 このような官憲の監視下、墳墓として盛り土はされ五〇年近く朴家によって守られていたが墓碑はなく存在は知られていなかった。韓国のかつてのアナキスト同志の間で再び金子文子の存在が注目されたのは作家瀬戸内晴美が「余白の春」の執筆過程でこの墳墓へ関心もったことによる。

 関連した踏査が契機となり七三年四月、韓国のアナキストは墓碑建立準備委員会を設立し、趣旨文を作成した。「……我々の日帝への三六年にわたる抗日史上、どんな事件にも比べることのできない壮烈で痛快で悲壮なことであった。…… すばらしい、本当にすばらしい。……金子文子の墓は荒廃していた。一昨年、数名の同志が現地を踏査して、その姿にひどく心が痛み、苦しさを感じた。……小さな墓碑を一つ立てたらという考えで同志たちの意志が一致した。」(『韓国アナキズム運動史』より。)

 実際には二メートルに及ぶ大きな石の墓碑が建てられ先の趣旨文が刻まれた。

私自身は一九九九年一一月、韓国ムンギョン市の山中にあるこの墳墓を訪れ草木で覆われた山道を辿った。

 そして二〇〇三年、あらたに移葬するという話があり一〇月七日、韓国ムンギョン市の人たちの訪問を東京で受けた。ムンギョン市郊外に朴烈と金子文子を記念する施設と二人の墳墓のための土地を確保し記念公園にする、二人に関する史料、文献を集めたいという趣旨であった。

 そして〇三年一一月、移葬され、記念館、記念公園の起工式は〇四年一〇月一六日に開かれた。


 〇四年一一月、再びムンギョンを訪問した。山麓に移された文子の墳墓は広く大きく整備されていた。記念館建設に向けて山すその敷地が整地され始めていた。

 二〇〇〇年二月には韓国のテレビ局により金子文子も対象となったドキュメンタリー番組が放映されている。三月一日独立運動記念特集「PD手帳」『日本人シンドラー布施辰治』。その内容は布施弁護士を中心に描いているが朴烈「事件」も大きな比重を占めている。交流がある研究者のイ・ムンチャンさん(当時・国民文化研究所会長。『日本アナキズム運動人名事典』編集委員が番組内で解説。

 〇五年一月一三日、「布施辰治・自由と人権」シンポジウムが明治大学主催で開かれパネラーの一人としてイ・ムンチャンさんがソウルから招請された。朴烈・金子文子との関係、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。翌日イ・ムンチャンさんを金子文子の故郷といえる当時の諏訪村(現山梨市牧丘町)へ案内、懇談会が開催され金子文子を通じて韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした交流となる。牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りした金子こま江さん(〇五年六月病死、享年八六歳)宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。


 韓国での朴烈や金子文子、二人の弁護人であった布施辰治への関心が強まるのと共鳴するかのように山梨では金子文子の生き方がクローズアップされてきた。

 〇四年七月二三日には牧丘町の金子文子の歌碑前で追悼集会が開かれ初めて地域住民を中心に五〇人余りが参加、私も赴いた。さらに一一月二六日、「金子文子の生涯と思想」と題された生誕百周年記念事業が開かれパネラーの一人としてシンポジウムに参加。主催は山梨県生涯学習センターと山梨文芸協会。平日の午後開催であったが一五〇名あまりの参加者があった。 〇五年、山梨県生涯学習推進センター主催による山梨学講座「日本とアジアの架け橋になった人々」が開講。一〇月八日、第四回のテーマは「日本・朝鮮を結ぶ文子の思想と活動」、再びパネラーとして参加した。



 ムンギョン市の朴烈・金子文子記念館の完工は来年の予定だが、イ・ムンチャンさんは朴烈・金子文子が共に活動したことをふまえ、現在とこれからに向けた韓国と日本の人々の交流の場となるよう望んでいる。