27東京日日


1926.3.6 <文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して 芙蓉面の住民騒ぐ> 『京城日報』 


■目下東京で公判開廷中の朴烈事件に関しその妻金子文子が七年間も養育されたその叔父忠北清州郡芙蓉面芙江里岩下圭敬三郎に対し同地では同氏を芙蓉面から追出すべしといって同地の住民が騒いでいる興味ある事件がある。事件の内容は文子の叔父岩下は同地の学校組合議員で同地でも相当有力に人であるが、まづ同氏は金子文子の今回の犯罪の動機につき左の如く語っている。『文子は早く両親を失うなど家庭の欠陥があったが、其の後東京正則英語学校に在学中も新山初子などと旺んに交際した従って此の感化のため今回の犯罪を惹起したことも其の動機の一つであるが、更に文子は子供の時から非常に心臓が弱く芙江小学校に在学中も学校で身体検査があるたびに時の校医松本某に「おまえは卅才以上は余命があるまい」と云われこれに対して文子は非常に悲観し其の果てに自暴自棄になったことが今回犯罪の大なる原因である』うんぬんと語っておるが、これに対し同地の人々は文子は叔父岩下家に七年間も養育されたが岩下は常に文子を虐待し何等文子を顧みなかった。これが今回の恐ろしい犯罪を生む原因になったのだとさけび非常に文子に同情し、責任の大半は岩下にあるはずである然るに岩下は学校組合議員の公職にあって何等その責任を感ずる模様もなく又謹慎する模様もなく平然として公職にあるのみならず然も体言壮語して大道を闊歩して恬然としてかえりみるところがない。かかる社会に対して恥を知らぬ人間はよろしくこの芙蓉面から追い出すべきであるというにあるもので日々その声は白熱化しつつあるものであると。



1926.3.13 『京城日報』1926年3月13日捨てた浮世だが淡い執着はある  大逆犯人金子文子が芙江の友へ寄せた手紙

《公州》大逆犯人として社会の耳目を動かした彼の忠北芙江出身の金子文子が或る幼友達に寄せた書信は左の通りであって彼女の内面的情熱の現れとして全く愛の手を離れて生立った経路が如実に物語られて居る ○○さんおなつかしうよく便りして下さった殆ど感慨無量とでも云いたい心のすがたに沈んで居ます。 あの頃の事がそれからそれへと絲丸でも手繰るようにほつれて行って今更乍ら涙ぐまれます。○○さんあの頃のあなたの瞳は私の生活がどんな風に見えたでしよか、或は幸福のものに見えたか知れん、だがねえ○○さん私は心のうち羨んだのか知れん、あなたや、みつちやんやおこつちゃんやそれから進さんや明さん方の自由の生活が……………○○さん其自由さを羨んだ心が私を思想運動の方へ導いて行った、そして今日の結果になった○○○ん私は今無政府主義者として立っているのです(中略)○○さん聴かして下さいね、あなたの御両親の方の消息を……それから若しお知ってなら服部先生斗鳥先生私の叔母(岩下の事)家の様子おむつちゃん善勝さんお巻さん明さん方其後をもあかちゃんが生れたのですってそりゃ御目出度うでも何だかふしぎな気がしますのねえ、桃割を頭のてっぺんへ結っていたあなたが二人の行き方がぐんと違っちゃったね、一緒に遊んだあなたと私と私の公判は多分来年の春頃になるでしよ弁護士は七人計りついて居ります、私自身は断ったのですが外に居る同志や友達がむざむざ殺したくないと残念がるのでまげて弁護士を承諾したのです私は毎日獄内で原稿書きをやって居ます、御覧の通り此ぺんと此紙で○○さんろ私はほんとうになつかしい、どうかこれからもなるべく始終便りして下さい御迷惑にはならんつもりですから私も出来るだけ出しますでは失礼後良人によろしく 市ヶ谷未決監独居場 金子フミ  ○○様   

一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

1926、3、20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号 李春禎? 在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか? 「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 2月106日午前9時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束10数名、警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。

1926、3、23  結婚届けを出す

1926、3、25  死刑判決







1926、3、29 『大阪朝日新聞』〈恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子〉……判決後4日間…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳1合にパン1片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反して、文子は朝は鶏卵2つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をしてきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっていると、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か5分間変り果てた娘の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第1日に着た朝鮮礼装1揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着でよいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝6時に起き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語っていました、……」

1926、3、30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」

1926、4、5  「恩赦」で無期懲役に減刑