市ヶ谷刑務所陸測図広域




















飯田徳太郎   

 (一)  朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日-三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は皆朝鮮人ばかりであった。李王世子殿下暗殺未遂事件の徐相漢、曩に朴烈と一緒に拘引された張詳重、韓けん相、鄭泰成等もその中に居た。僕は主に中西夫人と知人の噂話をしていた。其処へ布施弁護士の代理の人が、死一等を減ぜられて無期懲役になった旨の通知書を持ってやって来た。一同は夫れを取囲んだ。 「この通知書を朴と文子に見せ度いから何とか取計らって呉れと願ったが、まだ公然と決って居らないのだから、と云って刑務所では頑として聴き容れないのです」

 と彼は当惑顔に言った。 「司法当局から公然と通知して来れば、刑務所の方から両人に通告するし、通知がなければ判決通り死刑なのだ、兎に角弁護人の方から知らせてやる必要はない、と斯う云うのです。」  

弁護士は次に、朴烈がつい先頃手渡したという漢詩を見せた。壮士一度び起って、と云う冒頭で、裁判は愚劣なる劇に過ぎず、と結んだ非常に心惹かれる五言絶句であった。  

その時、一人の朝鮮の女学生と一緒に、四十歳位の丈の低い上品な婦人が一同の方へ歩いて来た。僕は一見して吃驚した。金子文子その人がやって来たと思ったからである。併し軈て、その年齢や、事情を考えてみて、どうしたって文子でないことに気付いた。それ程その婦人は文子に酷似していた。婦人は一同に近づいて、知己の人二三を除いた外の者に丁寧に挨拶した。実は文子の母親だったのである。  

皆は文子の実母を囲んで、改めていろいろと談合した。  

文子の母親は二十三日に郷里の山梨県から上京して、韓吉という青年の紹介で、その友人(鮮人の新聞記者)が宿泊して居る静修館という下宿に身を寄せていたが、二十五日公判廷からの帰途刑務所に立ち寄り、面会所で三四十分間程文子と語り合ったのである。  

文子は毫も未練がないと云った。母親も、無論こうなった上は立派に死んで呉れ、世間態もあるから……と言って二人は互いに抱き合って、今生の別れを惜しんだ--「こんなことなら東京へ出て来なかったらよかったと思いますわ」とも文子は言った相である。でも二人は涙が先に立って語る言葉も無かった。 

母親の頬のあたりにはなみなみならぬ心労の跡が覗割われたが、諦めていると見えて、口辺には断えず人懐っこい微笑を浮かべて居た。今日は更に朴烈に面会した上、夕方の汽車で帰郷するとのことであった。  

市ヶ谷刑務所陸測図該当エリア 

やがて時間が来た。看守が、みんな一度に面会させるからと云って、一同を大玄関へ導いて行った、玄関の石段の上には、黒い紋付を着た朴烈が、戒護主任と看守に守られて立っていた。真先に進んで行った者が、いきなり石段を駆け上って朴に抱き付こうとしたが、看守の手に遮られた。戒護主任は一同を制して、 「今日は一切言葉を交わしては可けない。ただ顔だけ見て引取って貰い度い」  

と言い渡した。一同は仕方なく、帽子を脱って、彼の近くへ集った。朴烈は奇麗に剃刀をあてた蒼白い顔に、元気の好い微笑を浮かべて、一同の挨拶に応えた。 「今日は話は出来ないそうだから、これで我慢して帰って下さい」  

彼はハッキリした、落ちついた口調で語った。すると、僕の背後で微かな吐息が聞こえた。ふと振り向くと、それは一心に朴烈の顔を凝視している文子の母親の口から洩れたのであった。僕は暗然たらざるを得なかった。

「では、これで左様なら、」  

少しも未練気なく朴烈は挨拶をして、手にしていた編笠を被ろうとした。中で、 「朴君、もう会えないのか」  と云った者があった。併し彼は冷たい微笑を崩さなかった。彼の顔色、眼光には、死を覚悟して仕舞った人の、落つい、透明な美しさが籠っていた。  朴烈に別れて玄関を背にした一同の口からは、一斉に深い吐息が吐き出された。その日は文子への面会は許されなかった。晴れた空の北の方で、一抹の黒い雲が湧き出したことをみんなは気遣いながら、揃って刑務所の門を出たのであった。    

(二)  韓その他二三の者は、まだ前に面会する人があるので残り、後の六人だけが文子の母親を見送る為に新宿駅まで歩くことにした。いづれも不如意な生活を送っているものばかりなので、厚くねぎらうことは出来ないが、せめてもう二三日東京に滞在して、見物したり、文子が死刑になるか無期になるかハッキリ決まるのを待ってから帰郷する様にと、皆が母親に勧めたのであるが彼女は一刻も早く帰りたがっているので、仕方なく見送ることにしたのであった。

空がくもって雨が少し落ちて来た。発車時間に間があるので一同で三越の新宿別館へ彼女を案内し、食堂で簡単な昼飯をとった。その間中、婦人は悲しみの色も見せず、総てに満足し、感謝している様に見えた。中西夫人が主となっていろいろ説明する言葉を、さも東京見物に来た老婦人らしく一々嬉しそうに聴きとるのであった。それを見ていると、未だ我々の方が気の弱いことが解って恥じずには居られなかった。

「ほんとに皆さんに色々御心配をかけまして、有難うございました」  

その声のうちにも、文子と共通した朗かさがあった。それから、辺りを憚るように小声で文子の話をしつづけた。

「あれは、子供の頃から頭が傑れてよかったので、私も安心して手離したのです。それに入り組んだ事情もありましたものですから………けれども朝鮮で引取って呉れた伯母がひどく虐待したので、十五六の時逃げて帰りました。それから本人は学校の先生になるつもりで勉強したのですが、それもうまく行かずに東京へ出て来たのです。

私も可愛い娘ですから手許を離したくはなかったのですが、人並勝れて才があったので、大丈夫だと思って東京へ出したのです。すると思いがけなく今度の様なことになりまして……新聞では色々と文子のことを書きますが、私から見れば、親のひいき眼かも知れませんが、怜悧で気の弱い娘でした」  

云いながら母親は声を呑んだ。  時間が来た。見送りに来た朝鮮の人達から、切符と汽車の中の喰べ物などを贈られて、文子の母は汽車に乗り込んだ。最後まで快ちよい微笑を含みながら、一同に挨拶をしていた。その眉のあたりへ雪が頻りに降りかかった。 汽車が出て仕舞ってから、徐相漢が僕の方を振り向いて、 「僕たちは誠意を尽して帰したのですから、向こうも悦んでいた様で、大変うれしく思いました。併し、ああして始終ニコニコしているが、心の裡では激しく泣いているのだと思うと、僕達も悲しくなって来ます」  と暗い声で言った。