張赫宙


1905.10.13-1998.?.?

チャン・ヒョクチュ、ちょう・かくちゅう、本名張恩重、日本名野口稔(野口桂子と結婚)

慶尚北道大邱に生まれ、幼少時は母に連れられて朝鮮南部を転々とする。大邱高等普通学校(旧制中

学相当)卒業後、1927年から1932年まで慶尚北道の山村で教員生活、習作を書く。学校時代からアナ

キズムに共鳴する。加藤一夫を尊敬し、アナキズムから農本主義に傾きつつあった雑誌『大地に立つ』

にカンパをしていた。大邱普通学校訓導の時、加藤から「小説依頼の手紙が届き」1930年10月、『大地

に立つ』2巻10号に「白楊木」(ぽぷら)を掲載、朝鮮の小作人の悲哀を描く。1931年、<文芸戦線>を

脱退した黒島伝治が主宰する『プロレタリア』第2号、1931年1月発行に大邱から「同志通信」を送り『戦記

』グループに接近、アナキズムから離れ始める。1932年4月「餓鬼道」が『改造』の懸賞に当選、日本文

壇にデビュー。「朝鮮の貧苦の情況を広く世間に知らせたい」と貧農の団結と改善要求、逮捕者を出し

ながらも敢然と官憲に立ち向かう姿を描く。しかし「私はマルキストではなくアナキストでした」「蔵原惟人

、小林多喜二、前田河廣一郎のプロ文学の衣をそっと借り着、しかし1年半執筆に行き詰まる要因」と後

に『文藝』誌で記述1939年11月号。1932年6月、大宅壮一と同行し、当時日本プロレタリア作家同盟委

員長、江口渙に会うが、同盟には入らず。「追はれる人々」(1932年6月脱稿)『改造』1932年9,10月号掲

載、朝鮮小作人に対する東拓の管理と抑圧を描写、エスペランチストの大島義夫が注目、張に手紙を

送り翻訳了解を得、張からは「自叙略伝」「朝鮮文学小史」という原稿も届き、大島は高木弘という筆名で

39頁のエスぺラント語訳小冊子としてを千部刊行。大部分をヨーロッパに発送したという。エスペラント語

訳を基にポーランド語にも重訳される。1933年1月『文芸首都』が創刊され同人となる。張は発行人保高

徳蔵の家に寄宿したこともある。東京へ数度往復。この頃「奮ひ起つ者」『文芸首都』1933年9月号掲載

、は発禁処分、「少年」は1933年頃、エスペラント語に翻訳される。横光利一に影響を受け「權といふ男」

『改造』1933年12月号を発表。朝鮮において「家庭的に、色々な波錠に蓬着」し1936年以降、恋愛もあり

日本に定住、著作活動に専念。1936年7月、「張赫宙歓迎宴」が旧日本プロレタリア作家同盟系や進歩

的作家が集まっていた文学案内社主催により銀座で開かれる。宇野浩二、青野季吉、藤森成吉、徳永

直、山本実彦、貴司山治、林芙美子ら40名が集まる。「日本文壇初の朝鮮人作家という異彩」許南薫(

ほ・なむふん)。1936年9月、江口渙、村山知義らと『文学案内』誌の編集顧問となる。1937年、創作路線

を定められず苦悩、村山知義の依頼で戯曲「春香伝」を執筆。1937年、東大生であった金史良が張を

訪問する。1937年頃から多くの単行本を刊行。1945年までに30冊ほどの単行本、長篇小説15篇、中・短

編50篇が発表されている。朝鮮語作品の発表時期は1933年から1941年の10年に満たない。1938年に

は張、村山、金史良の3人の協力関係が成立。

1939年、『文藝』誌に「朝鮮の知識人に訴ふ」掲載。<朝鮮語では範囲が狭小><外国語に翻訳される

機会も多い>という「朝鮮語消滅論」であった。祖国の朝鮮文壇から排除される契機となり、親日派宣言

であった。戦後になり、この時期の言動が韓国<在日韓国朝鮮人も含めて>と日本の両側から痛烈に

批判される。作家としての居場所を喪失。(許南薫)

以降、旧「満州」「北支」への視察・取材旅行を数度敢行、各種座談会、雑文を通じ時局迎合発言が多く

なる。『緑旗』1943年1月号に「ある篤農家の述懐」を掲載、『緑旗』は朝鮮総督府の御用雑誌であり、親

日派の拠点。1944年1月、『岩本志願兵』を刊行。興亜文化出版。それらの作品は朝鮮総督府の移民政

策や皇民化政策を美化するものであった。(高崎宗司)「国策物、軍国主義と内鮮一体論に同調」(許南

薫)1945年5月、満鮮文化社の招聘で間島、「北支」方面へ取材旅行に出発、この間に東京の自宅が全

焼、帰路につき日本到着直後「終戦」、長野に疎開、永住を決意。1946年、週刊『平民新聞』に(日本ア

ナキスト連盟刊)小説「意中の人」を連載(「意中の人」第1回 張赫宙 『平民新聞』第3号1946年8月7日

、辻まこと挿絵、第19回25号4月30日で最後)

編集局「作者張赫宙君の仕事の都合で打ち切り」30号6月18日。依頼の経緯と打ち切りの他の理由は

不明。1947年、疎開から戻り埼玉の高麗神社に近い現日高市に住み続ける。1951年7月、最初の結婚

で朝鮮に残した子供たちの安否確認もあり毎日新聞の後援で戦争時の朝鮮を訪れ取材、「鳴呼朝鮮」

執筆。1952年10月、日本に帰化、野口稔が本名となる。1953年まで張赫宙の筆名を通した。1954年、自

伝的長編「遍歴の調書」は半生を総括、1975年、「嵐の詩(うた)」で再び自伝的長編を執筆。1977年、「

韓と倭」(からとわ)1980年、「陶と剣」(やきものとつるぎ)を発表。白川豊によると自己の出自たる朝鮮と

日本の歴史的関係に対する関心の回帰をノンフィションとした作品、1989年、エッセイ「マヤ・インカに縄

文人を追う」は民族のルーツ探索へと向かう作品、また英文小説を試み、長編小説4篇を構想、1991年。

一冊はインドの出版社から刊行「果てし無き旅路」として日本語版も構想されたという。湾岸戦争時、中

東地域に取材もしたという。

日帝の植民地政策に迎合したこともあり、白川が研究するまで張の作品総体は分析、評価する対象とは

ならなかった。川村湊は張赫宙が日帝に協力した親日派文学者であることは疑う余地がないと述べなが

らも「抵抗」と「屈従」の二項対立ではなく、精神の大きな振幅、膨大な灰色の領域、心の振れ幅、日本

語で書くことの真剣で深刻な葛藤を考察、張赫宙は、もともと朝鮮と日本という地域的、民族的、文化的

差異の中にこそ、自分の居場所を見出していた作家というべきなのだ、と評価。張赫宙自身としては、自

らの朝鮮人性は疑いもないものであって、日本国籍となっても消すことのできない<朝鮮人性>や<民

族性>が張赫宙にとっては問題ではなかったのか、と述べる。 (亀田 博)


参考文献

張赫宙「白楊木」「追はれる人々」『土とふるさとの文学全集3』(編集人、臼井吉見、小田切秀雄、水上勉等)家の光協会、1976年11月発行

張赫宙『わが風土記』(原本復刻版「文化人の見た近代アジア」4)ゆまに書房刊、2002年9月発行、解説、許南薫「張赫宙著『わが風土記』」

張赫宙「私の小説勉強」『文藝』改造社刊、1939年11月号

『平民新聞』日本アナキスト連盟刊、1946年発行

張赫宙「祖国朝鮮に飛ぶ」(第一報)『毎日情報』1951年9月号

白川豊『植民地期朝鮮の作家と日本』大学教育出版(岡山市)1995年7月発行

川村湊「金史良と張赫宙 植民地人の精神構造」、高崎宗司「朝鮮の親日派 緑旗連盟で活動した朝鮮人たち」『岩波講座「近代日本と植民地」6巻<抵抗と屈従>』

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