226金子文子墓碑

 
 75年(本稿は2001
年執筆)の時が過ぎた今でも、韓国、ムンギョンの地で金子文子の遺骨は眠り続けている。

 私は二年前にソウルからも遠く離れたムンギョンの町を経て、さらに山里から中腹にある墓所を目指した。
 1923年9月3日、関東大震災後の戒厳令下、文子は朴烈と共に陸軍軍人により保護検束され、公然と活動していた不逞社が治安警察法違反で秘密結社とされ、起訴≪他の同志たちも順次、治安警察法で検挙、起訴された。≫長期の取り調べで二年余りの予審の後、大日本帝国の刑法73条と爆発物取締り罰則でさらに起訴され、1926年3月大審院で死刑判決後、支配権力の勝手な恩赦で無期懲役が確定した。 弁護人であった布施辰治は『運命の勝利者朴烈』1946年刊、で弾圧の経過を記述している。

≪9月3日の逮捕は保護検束という行政執行法第一条の「救護を要すと認むる者に対して必要なる検束を加う」という規定の適用。9月4日には救護検束が24時間過ぎたので警察犯処罰令の「一定の住居又は生産なくして諸方に徘徊する者」の該当者として「拘留29日」を即決し、検束した世田谷警察署へ留置したのである。家主に対し検束直後「朴烈はもう還らない。永久に還らないかも知れないから、家を引き取って他の人に貸した方がよい」

といって朴烈君の住所を失却せしめ、家財道具等を警察官立会の上で勝ってに処分させた、一定の住所無きものとして警察犯処罰令を適用≫ まさに有事の際の「保護」から「大逆罪」まで一直線につなげたのである。

二人は不逞社の同志と共に、天皇、皇太子、日本帝国主義国家を打倒目標とし、その手段として爆弾を入手し、ダメージを与えるための行動を企図したことはある。しかし、それは漠然としたものであり、具体的行動につなげた部分は権力がフレーム・アップしたものである。 二人は弾圧後、裁判においても、天皇や皇太子を打倒しようとした意志を変えることなく、権力による「大逆罪」攻撃を引き受けたのである。

文子は日本で生まれたが家庭に恵まれず、朝鮮の親戚の家で不幸な生活を送り日帝本国に戻っていた。1922年に二人は出会い、他の数名の日本人も含み、朝鮮人活動家と共に黒風会、不逞社というアナキズム系の運動を進めていた。そして二人はシュティルナー主義の自我を基盤にし、虚無主義をも複合した考えになっていた。 この裁判の調書は、幸徳たち1910年の「大逆罪裁判」がそうであったように、大日本帝国憲法下では明らかにされず、事件を弾圧された「被告」たちの立場で語ることも「不敬」罪弾圧を引き起こす可能性もあり、情報は国家権力の独占化にあった。  

1945年以降も二人の裁判関係の書類は、法務省により管理され、限られた形でしか見られなかった。 資料が印刷され、読めるようになったのは1977年である。すでに刑の確定から50年、日帝敗北後からも30年あまりの年月が過ぎ去っていた。 金子文子と朴烈の意図を訊問調書という限られた状況で語られたテキストの中で紹介する。

金子文子 第四回被告人訊問

調書 1924年2月1日 

「問い 朴は朝鮮独立運動者では無いか。

答 如何なる朝鮮人の思想より日本に対する叛逆的気分を除き去ること

は出来ないでありましょう。 私は大正八年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾

の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる

独立運動を思うと時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」

 

金子文子 第十二回訊問調書

 1924年5月14日

≪爆弾入手をしようとした目的に関連した答え。坊ちゃんとはヒロヒトのこと≫

「つまり、坊ちゃん一匹をやっつければ好いのであります。  

天皇をやっても好いのでありますが行列の機会が少ないのと、

天皇は病人ですから坊ちゃんをやるのとは宣伝価値が違って

甲斐がありませぬ 夫れで坊ちゃんを狙ったのです。」

「つまり坊ちゃん一人に爆弾を投げれば好いのでありますが、若し出来る

なら坊ちゃんと一緒に大臣らの政治の実権者もやっ付けたいと思って居

りました。」

 

第十回訊問調書 

1924年5月12日 市谷刑務所

「しかし俺が日本の皇室、とくに天皇、皇太子を対象の一つとくに最も重

要なるものの一つに挙げたのは、第一に日本の民衆に対しては日本の

皇室がいかに日本の民衆の膏血を搾取する権力者の看板であり、また

日本の民衆の迷信している様な神聖なる事神様の様な者では無くて、実

は其の正体は幽霊の様な者に過ぎない事を即ち日本の皇室の真価を知

らしめて、其の神聖を地に叩き落す為、 第二に朝鮮民衆に対しては、同

民族が一般に日本の皇室を総ての実権者であると考えて居り憎悪の的と

して居るから、この皇室を倒して朝鮮民衆に革命的独立的情熱を刺激す

るが為、 第三に沈滞している様に思わるる日本の社会運動者に対しては

革命的気運を促がす為にあったのだ。 日本の天皇は病人ではあるが皇

太子と共に皇室の表面的代表的なる事には同価値である。 ことに俺が昨

年の秋の皇太子の結婚期に爆弾を使用する事を思い付いたのは、朝鮮の

民衆の日本に対する意志を世界に対して表明するには最も都合の好い時

機だと思ったからであった。」

二人の叛逆の意志は死刑という結末を前にしても怯むことはなかった。

 

ムンギョン  

ソウルの東バス・ターミナルから南に向かう高速バスに乗る。ソウルから南東、韓国の真中に位置する、ムンギョンの山麓に墓所はある。バスは三時間程でムンギョンに着く。 バスの停車場からタクシーで行くしかない。走りだすとすぐに街を抜け、田園風景の中を進む。10分ぐらいで農道をはずれ山に向かう道へ入る。緩やかな登りになり、4~5分で5、6軒の集落に入る。そこも過ぎて林道も狭まり状態も悪くなってきた。3メートル幅の沢が横を流れ、小さなリンゴの林が見えて来た、道はさらに悪く、石塊が車体に跳ね返り、最徐行で進む。しばらくして少し切り開いた台地に登り詰め停車した。山側に草が茂っているが、かすかな踏み跡があった。確信はないが他にはないので、ぐんぐんと枝をかき分け進む。10メートル直登し、右手へ斜面を巻くように30メートル進むと突然切り開かれた空間に出た。斜面も含めて10メートル四方の木々を伐採してある。  

チュウル山に屹立する墓所  手前に幅3メートル、高さ1メートル余りに土をお椀型に盛り上げている。すぐ横に2メートルを越す墓碑が立っている。正面に大きく漢字で金子文子と彫ってある。  着いたという、ほっとした気持ちと共に、朴烈の兄が文子の骨を朝鮮の地に持ち帰り、一般より更に山の上に墓所を定めざるをえなかった気持ちに思いを寄せた。

「大逆の罪を犯した」2人の身内ということで、日帝の警察の監視は常にあり植民地下で文子の骨を引き取った行為は相当な決意があったと思う。  文子の墓所の前に佇み、朝鮮の山村に文子の墓所と墓碑があるというこの70年余りの歴史を反芻せざるを得なかった。  

墓の対面には山里を挟んで、鋸状の岩稜の相貌をくっきりと現わしたチュウル山(1106メートル)が雨中にも関わらず遠くに見える。  

栃木刑務所当局により、1926年7月23日、文子は「自殺」と発表された。当時の同志と布施弁護士は真相の解明を求めたが当局は明らかにしなかった。  

1973年4月、韓国のアナキストは「墓碑建立準備委員会」を設立し「趣旨文」を作成した。

「…その正義の精神、抗日の精神、世界革命の精神、夫と同志を愛する精神、どれ

一つをとっても終始一貫した思想で武装され、行動で体系され、勇敢な意志であった。

これは我々の日帝への36年にわたる抗日史上、どんな事件にも比べることのできな

い壮烈で痛快で悲壮なことであった。……  すばらしい、本当にすばらしい。しかし、

朴烈は北朝鮮に拉致され、金子文子の墓は荒廃していた。一昨年、数名の同志が

現地を踏査して、その姿にひどく心が痛み、苦しさを感じた。……小さな墓碑を一つ

立てたらという考えで同志たちの意志が一致した。」

(『韓国アナキズム運動史』より要約。)

 墓所は改装され、墓碑も同志の強い支持が集まった結果、大きなものがたてられたようだ。26年後の今日も文子の強い意志を象徴するかのようにチュウル山に相対し立ち続けている。

 

補足 2004年に山麓に墓碑が移転されている。 2004.9.18