222墳墓

林檎畑を抜け、農村の道を車は走る。五年ぶりの旧・聞慶(ムンギョン)郡麻城面梧泉里の訪問であった。今は聞慶市の外縁、山麓地になる。樹々の葉は紅と黄に彩どられている。整備された高速道路をソウルから南下し東に向かい、そして再びの南下。韓国内の高速道路網の延伸の経緯は知らないが舗装面を見る限り新しい。聞慶(ムンギョン)近郊まで至る高速道路がさらに整備中で工事が進んでいた。かつて「鳥も通わない」と新聞記事で表現された鳥嶺山一帯の景観は人工物により壊されていた。大きな地震がないという韓国では山間を結ぶ高速道路の高架橋は長く細く屹立していた。前世紀末の韓国経済の破綻、都市部への人口集中により山間部、農村地帯が解体されて行くのと反比例するように高速道路は延びて行くように思われる。周辺の中核となる町や小さい市は大都市の縮小版として生き残る一方、外縁部を観光地として開発するしか途はなかったのだろうか。何年か前に合併、人口七万人というムンギョン市もそのような方策で活性化を目指している途上なのだろうか。そのムンギョン市や朴烈の遺族が中心となり朴烈と金子文子の記念館が設立されるという。そしてムンギョン山中に位置していた墳墓と墓碑が移転されたというので、その状態を確認するための韓国訪問であった。                           

 ソウルからの交通時間が縮まるのと比例して朴烈や金子文子への韓国や日本に住む人々の認知度が高くなるのだろうか。日帝が侵略していた時代、東京からの往還は釜山、テグを経由する方が早かった。今は東京を基点とするならばソウル経由が早いが金子文子たちの時代は釜山からテグを経由して行く途が当たり前であったのだろう。成田、インチョンを飛行機、ソウル、ムンギョンを高速道路で時間短縮しても日帝と朝鮮とのこの百年の歴史や金子文子の生と死への理解が早急に広まるものではない。    
 次々と山嶺を後景に飛ばす自動車は時速一四〇キロメートルで疾走していた。
 七七年前、彼女の遺骨は朝鮮聞慶(ムンギョン)へ埋葬されたが、遺骨の行方をめぐり、事件が起きていた。事件としたのは官憲の側である。
 新聞は官憲側の立場で報道している。代表的な見出しは「金子文子の遺骨を盗去る 追悼会がすんでから やうやく取戻された」
 概説すると、布施辰治宅から八月一日の早朝に朝鮮の同志が遺骨を追悼会のためにある同志宅へ移動させた。布施宅を包囲していたはずの池袋署は見逃しあわてて母親や同志たち二十名余りを検束した。しかしすぐに行方は判らず、公然の事務所を兼ねていたアナキストの部屋を急襲する。ようやく落合の前田淳一宅に安置されていたのを発見したという内容である。
 なぜ布施弁護士宅を包囲していたのであろうか。遺骨の出入りを管理していたのである。大逆事件の(犯人)であった者は死してなお遺骨は管理され追悼会が開かれることは許さないという政治的弾圧である。法律上の根拠があるわけはない。治安維持の立場である。追悼会といっても機関紙などで通知している時間はもとよりあるはずもない。同志たちがせめて遺骨を安置して偲ぶという行為までを認めないのである。
 「遺骨持逃げ」というの池袋署の談話は「盗人猛々しい」ということである。同志宅から奪ったのは官憲、池袋署である。
 ここに治安維持を最優先とした国家の正体が暴露されている。
金子文子の遺骨、その奪われた遺骨は警視庁により東京から朝鮮の聞慶警察署に鉄道便で送られた。
 金子文子の死去した日は七月二十三日とされている。それは宇都宮刑務所栃木支所による発表でしかない。弁護士、母親、結婚相手朴烈の兄弟への死亡直後の迅速な連絡をすることなく遺体をすぐに刑務所の共同墓地に埋葬してしまった。全ては塀の中で進められたのである。「縊死」という発表に疑問をもった布施辰治弁護士と同志たちは仲間の医師を同行し検分のための遺体の発掘と仲間たちへの遺体引き渡しを追求した。七月三十一日の『読売新聞』は仔細に報道した。

■共同墓地に葬つた文子の死体を掘出す

「卅日午後三時四十五分赤羽発列車で同七時栃木町に着いた文子の同志栗原一雄、古川時雄及び実母きく、布施弁護士、馬島医師等が前田支所長に死体引取の交渉をしたが埒明かず同夜十時布施、栗原、古川の三氏は自動車を宇都宮市に駆つて吉川同刑務所長に重ねて交渉した結果同夜十一時同所長より引渡を許され実母外数氏は人夫六名と共に栃木町を距る一里、下都賀郡家中村合戦場共同墓地に至り同十一時四十分から死体発掘に取り掛つた疑問に包まれた『妙文』の卒塔婆の下、文子の死因は?斯くて馬島医師は仔細に検診する事になつた」

馬島医師は検診するも死後七日前後も経て正確な検分は困難であり死因は曖昧なまま火葬せざるを得なかった。一行は東京に戻り遺骨は同夜東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅に安置される。そして警視庁池袋署は数十名の警官で布施宅を包囲、監視をする。このような状況下で前述の「事件」が起きたというわけである。
 二週間後、朝鮮から朴烈の兄が遺骨を引き取りにくる。朝鮮に兄が戻り、八月三十日の『京城日報』は伝える。
■文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と朴廷植釜山で語る
「(釜山特電)獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取るため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子朴烱來(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山に上陸したが官憲の監視の中に二、三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそばなしの後九時十分発特急で大邱に向、二十九日大邱に一泊する予定だと」
  さらに朝鮮での埋葬を報じている。
■金子文子の遺骨を埋葬 三条件つきで との見出し
「金子文子の遺骨は朝鮮人主義者間でこれを運動に利用する惧れがあるので警察の監視のもとに五日深更朴烈家の墓地である聞慶郡新北面に埋葬することになつた、右につき当局は一、埋葬は秘密にする、二、祭祀は当局の通知するまでは行はぬ、三、祭祀には関係者以外を絶対に入れぬことの三条件を附した(京城電報)」
 そして、十一月五日、「金子文子の遺骨は予定の五日午前十時埋葬を変更して午前九時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官二名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面八霊里(聞慶邑内を去る西北二里)に到着し同十一時埋葬に着手し午後三時埋葬を終了した。会葬者は朴烈の実兄朴廷植、実弟朴斗植の二名であった」
 さらに十二月になり「訪ふ人もない墓…駐在所と連絡をとつて厳重監視を怠らぬ…尚州山脈につゞく山また山のふもとで耳に入るものは鳥の鳴く声ばかり」
 官憲が金子文子の墳墓を厳重な監視下におきながら訪問者もいないとの宣伝、見棄てられたという印象を日帝の植民地支配、官憲の手先となっている朝鮮での日本語新聞は伝えるのである。厳重な監視状態におきながら、一方で訪問者がいないという矛盾した報道をしている。 
 刑法七三条(大逆罪)で「裁かれた」者は遺骨になっても囚われ続け人々から遠ざけられた。
 その墓所の移転は二〇〇三年十一月。ムンギョン市内の山麓に移され墳墓は広く大きく整備された。記念館、記念公園の起工式は〇四年一〇月十六日に開かれた。
 そして二〇〇四年一一月二六日、金子文子の故郷といえる山梨で「金子文子の生涯と思想」と題された生誕百周年記念事業が開かれた。第一部は講演。関東大震災時に現れた日本の国家・民衆の姿と金子文子、今日における金子文子思想の意味を探るとして山田昭次さん(著作『金子文子自己・天皇制国家・朝鮮人』)が講師。第二部がシンポジウム、金子文子の思想、実践、今日へのメッセージという構成。主催は山梨県生涯学習センター、山梨文芸協会。平日金曜日の午後、甲府市内開催であったが主催者側の予測をこえ一五〇名あまりの参加者があった。 
 その四ヶ月前、七月二三日には金子文子が暮らしていた諏訪村(現牧丘町、塩山駅北方)の金子文子の歌碑前で追悼集会が開かれ地元住民を中心に五〇人余りが参加している。この「文子忌」に関しては共同通信が記事を配信する。(二〇〇四年八月九日)。遺族が受けてきた状況が取材で語られている。一部を紹介する。
■金子文子の再評価進む/大逆罪は冤罪「反逆者とされた金子は地元牧丘町でも語られることは少なかった。遺族の 金子こま江(かねこ・こまえ)さん(八六)は「戦後になっても『大逆事件』の犯人の親族として、家族が就職を断られたこともあった、と打ち明けた。金子の七十八回忌に当たる七月二十三日、牧丘町で[しのぶ会]が開かれた。昨年は四、五人しか集まらなかったが、今年は町長ら約五十人が出席。朴が生まれた韓国・聞慶市では、朴の親族や研究者が「朴烈義士・夫人金子文子記念館」の建設を進める。二〇〇六年開館を目指し、市内の金子の墓も敷地内に移転。こま江さんは、親族もこれまで後ろめたい気持ちで暮らしてきたけれど、だんだんと本当の金子文子が理解され、その気持ちも薄らいできた、と話している」
 刑法七三条(大逆罪)で大審院の被告とされた二人めの女性である金子文子。今、彼女の生と死が山梨を中心にクローズアップされている。
 金子文子の名は一九七三年に瀬戸内晴美が描いた小説『余白の春』で一部に広まった。牧丘町の歌碑の建立は七六年である。九六年に前出、山田昭次著『金子文子自己・天皇制国家・朝鮮人』が刊行され初めて弾圧の全体像と朝鮮体験が死後七〇年にしてようやくまとめられた。
 そして韓国においてもこの数年、朴烈、金子文子の活動と日帝による大逆罪弾圧が広まり「朴烈」や弁護人であった「布施辰治」のドキュメンタリー番組も制作され評価が共に高まっている。
 山梨におけるこの一年の動きは韓国の人々の思いに影響されているが、地域で長年着実に金子文子の生き方を表現していた人たちの存在が大きい。遺族である金子こま江さんは歌碑を維持してきた。

 甲府の集会に参加した人たちの動機には今、戦争国家へ突進んでいることへの批判、この国の侵略と弾圧の歴史、大逆罪に象徴される天皇を中心とした日本帝国主義の暴圧支配を金子文子の生と死を通して学ぼうという意思が強かったのではないか。
 私も前述のシンポジウムにパネラーの一人として招請され、以下の点で問題提起した。大審院判決の確定後、一九二六年八月に不逞社の仲間や救援に関った同志が治安維持法でのフレームアップを受け投獄、朝鮮のアナキスト二名の実質、獄中弾圧死という事実が知られていないということ。金子文子の思想を伝えようとした仲間たちが存在し弾圧を受けたことは記録としても埋没されたままであったということを。
 山梨の人たちが講演開催の契機とした生誕百周年ということであるが、金子文子は無籍者として育ち当初は小学校への入学すら拒否されている。従って実際の生年は記録として残されていない。本人が予審で述べた数え年から逆算すると一九〇四年生まれということになり、両親が訊問調書で干支を根拠に記憶で語った生年は一九〇三年である。しかし金子文子の言い方に学ぶならば、生年は関係ない。
 訊問に金子文子の意思が残されている。
問 年齢は。
答 御役人用は二十四年ですが自分は二十二年と記憶して居ます。併し本当のことを云えばどちらのことも信じて居ませぬ。又信ずる必要もありませぬ。年が幾つであろうと私が今私自身の生活を生きて行くことには何の関係もありませぬから。
問 職業は。 
答 現に在るものをぶち壊すのが私の職業です。
問 住居は。
答 東京監獄です。 
(金子文子予審請求書訊問調書第一回、一九二五年七月十八日市ヶ谷刑務所、刑法第七三条の罪並爆発物取締罰則……大審院特別権限に属する被告事件予審掛東京控訴院判事立松懐清……)

 金子文子は十六歳で朝鮮の地で直面した三・一独立運動に対して「私にすら権力への叛逆気分が起こり他人事と思えぬほどの感激が胸に湧く」と述べた。東京に出て、朴烈と知り合い同志的関係で同居を始め、黒濤会の活動に参加。黒濤会は一九二一年秋に結成、アナもボルも越えることを主旨とした日帝本国における最初の朝鮮人による社会主義者の思想団体である。黒濤会は世田谷池尻の金子の下宿を事務所とする。しかし一九二二年十月に分裂、朴烈、洪鎮裕、朴興坤、申焔波、徐相一、張祥重らとアナキズムの団体黒友会を組織、金子文子と朴烈は機関誌『太い鮮人』を発行。さらに一九二三年四月、朴烈と相談して日本人や朝鮮人のアナキズムに疎遠な人を集め不逞社を組織する。同年三月から二人で池尻から移り住んでいた東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷の借家を集りの場とする。金子文子は「不逞社は権力に対して叛逆する虚無主義や無政府主義を抱いて居る者の集まり」であったと述べている。タイトルは『現社会』と変えながらも刊行を続け、文子も執筆を続ける。

東アジアにおけるアナキストたちの交流と連帯を振返る。前史は一九〇〇年代にさかのぼる。中国人留学生によってよびかけられた一九〇七年の東京における亜州和親会があり幸徳秋水、大杉栄ら日本の社会主義者も会合に参加していた。会の趣旨は「反帝国主義、民族独立」。会員は「亜州人にして侵略主義を除き、民族主義、共和主義、社会主義、無政府主義を論ずること無く、皆入会することを得」とあり朝鮮、インド、安南(ヴェトナム)、フィリピンからの当時日本に滞在していた革命家も参加。それから一六年を経て不逞社の設立があり、さらに五年後の一九二八年には上海を中心とした「東方無政府主義者連盟」が発足。日帝の東アジア侵略下で国境を越えて活動していた中国、朝鮮のアナキストが中心メンバーであった。やはり台湾、インド、安南(ヴェトナム)、フィリピン、日本の地域からもアナキストが参加、機関誌『東方』が朝鮮語、中国語、日本語で発行されていたという。連盟のメンバー、シン・チェホは幸徳秋水の著作に影響を受け無政府主義者になったと語っている。また中心メンバーであったイ・フェヨンは一九二〇年代はじめ、日帝に対し独立運動を闘う中でアナキズム思想が最良だと判断。シン・チェホと共に自由連合の組織原理による革命の必要を確信する。シン・チェホは「朝鮮革命宣言」を執筆し朴烈にも大きな影響を与えた。イ・フェヨンは一九三二年、六六歳で日帝官憲の拷問により虐殺される。シン・チェホも逮捕され一九三六年、五七歳、旅順刑務所で獄死する。また活動グループの結成はないが一九一〇年代から二〇年代にかけて山鹿泰治、大杉栄、岩佐作太郎らが中国のアナキストとの交流を続けていた。

関東大震災後の九月三日、不逞社から保護検束という名目で金子文子は朴烈と共に世田谷警察署に連行され、続けて他の同志たちも検挙される、治安警察法違反から使用目的が具体化していなかった爆弾入手の意図が拡大解釈され最終的に二人は刑法七三条と爆発物取締罰則違反で予審において調べを受け大審院に付される。

金子文子は予審の訊問調書で語る。少し長いが大逆罪へとつながる思想の眼目であるので、第一二回訊問調書(五月一四日)の予審判事への答えを引用する。
問「被告は何故 皇太子殿下に其の様な危害を加へ様としたのか」
「人間は人間として平等であらねば為りませぬ。…総べての人間は完全に平等であり、従って総ての人間は人間であると云う只一つの資格に依って人間としての生活の権利を完全に且つ平等に享受すべき筈のものであると信じて居ります」。

彼女はこの視点から天皇という存在、それを中心とした支配権力への批判と否定を囚われた中で語りつくしている。
「地上の平等なる人間の生活を蹂躙している権力という悪魔の代表者は天皇であり皇太子であります。私が是れ迄お坊っちゃんを狙って居た理由は此の考えから出発して居るのであります」「地上の自然にして平等なる人間の生活を蹂躙して居る権力の代表者たる天皇皇太子と云う土塊にも等しい肉塊に対して、彼等より欺瞞された憫れなる民衆は大袈裟にも神聖にして侵すべからざるものとして、至上の地位を与えてしまって搾取されて居る」
「其処で私は一般民衆に対して神聖不可侵の権威として彼等に印象されて居る処の天皇皇太子なる者の実は空虚なる一塊の肉の塊であり木偶に過ぎない事を明に説明し、又天皇皇太子は少数特権階級者が私服を肥す目的の下に財源たる一般民衆を欺瞞する為めに操って居る一個の操人形であり愚な傀儡に過ぎ無い事を現に搾取されつつある一般民衆に明にし、又それに依って天皇に神格を附与して居る諸々の因習的な伝統が純然たる架空的な迷信に過ぎない事、従って神国と迄見做されて居る日本の国家が実は少数特権階級者の私利を貪る為めに仮説した内容の空虚な機関に過ぎない事、故に己を犠牲にして国家の為めに尽すと云う日本の国是と迄見做され讃美され鼓吹されて居る彼の忠者愛国なる思想は、実は彼等が私利を貪る為めの方便として美しい形容詞を以て包んだ処の己の利金の為めに他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる慾望に過ぎない事、従てそれを無批判に承認する事は即ち少数特権階級の奴隷たる事を承認するものである事を警告し、そうして従来日本の人間の生きた信条として居る儒教に基礎を求めて居る他愛的な道徳、現に民衆の心を風靡し動もすると其の行動をすらも律し勝な権力への隷属道徳の観念が実は純然たる仮定の上に現れた錯覚であり空ろなる幻影に過ぎない事を人間に知らしめ、それによって人間は完全に自己の為に行動すべきもの宇宙の創造者は即ち自己自身である事、従て総ベてのモノは自分の為に存在し全ての事は自分の為に為されねばならぬ事を民衆に自覚せしむる為に私は坊ちゃんを狙って居たのであります」
  二人は不逞社の仲間への「大逆罪」弾圧の波及を回避しフレームアップの阻止と(幸徳事件での一二人の処刑は一三年前であった)、また思想として内実化していた天皇国家否定の立場で天皇打倒の意思を貫き、予審において爆弾の使用目的を皇太子(ヒロヒト)の結婚式であると「容認」する。それは漠然と思い描いていただけで具体化はしていなかった。「結婚式での爆弾を使用する」には爆弾の存在が不可欠であるが、爆弾を製造するつもりもなく、ひたすら入手の機会を待つという成り行き次第であった。しかし二人は予審判事の描いた「大逆罪」を認めてしまうのである。
 大審院での死刑判決は一九二六年三月二十五日。数日後に無期懲役に減刑するという極めて政治的な恩赦が出された。
 この間、金子文子は自伝を含めて五つの文書を残している。
一、「日誌」。本人が予審訊問でその存在を二度語っているが所在が確認できない。官憲に隠蔽され抹殺されたのか幻の文献である。
一、「予審訊問調書」。多くを語り自らの思想をこの調書に表現させている。平等思想、天皇の否定を存分に語っている。
一、「獄中書簡」。救援で支えている同志へ書かれた。後に歌集『獄窓に想ふ』にまとめられた歌は書簡中に詠まれていた。また手紙では本音が著されている。
一、「二月二三日手記」。大審院開廷日の二月二三日、手記を一晩で書きあげている。
一、「自伝」。獄中で執筆を続け朴烈との出会いまでが著わされた。栗原一男が朝鮮の刑務所から解放後、編集、刊行される。
 三月二十九日の『大阪朝日新聞』がこの頃の獄中生活を報道している。
■恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子「……判決後四日間、…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳一合にパン一片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反して、文子は朝は鶏卵二つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている…」
「しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か五分間変り果てた娘の顔を見ることができたが」
「…文子も書き続けていた生立の記が完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着でよいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった…」 

 獄中手記は『何が私をこふさせたか』として刊行され版を重ね、また復刻もされ、金子文子に関心がある人たちが読むテキストである。しかし獄中からの手紙は読まれていない。今一度手紙を読み解くことを必要されている。手紙の一部を紹介する。
「…以上の前提による結論としての蒲団毛布等の差入れでしたら、きっぱりとお断わりしましょう。 蒲団は、一女性である妾が、(貴方等が妾に与えてくれた資格を逆用して)一人間の資格に於て勇敢に返上する、妾は人間として行為し、生活して来た筈だ。そして妾が人間であることの基礎の上に、多くの仲間との交渉も成立していた筈だ、そしてそう見ることによってばかり初めて真の同志ではなかろうか、即ち平等観の上に立った結束ばかりが真に自由な、人格的な結束ではあるまいか。」
「今の妾──今の立場に於ける妾はPの同志でありPは妾の同志であった。そして妾は今同志としてのPを想う以上に、何の考えも持っては居ない。今の妾が求めているものは、男ではない、女ではない。人間ばかりである。相手を主人と見て仕える奴隷、相手を奴隷として憐れむ主人、その二つながらを、ともに私は排斥する。個人の価値と権利とに於て平等観の上に立つ結束、それのみを、只それのみを、人間相互の間に於ける正しい関係として妾は肯定する、従って妾と他人との交渉の一切を、その基礎の上にのみ求めることを、妾は今改めて、声高らかに宣言する」

 獄外の仲間へも同志関係での支援を求めていた。一人の人間として獄中から高らかに宣言している。

不逞社・真友連盟事件を契機とした四人の弾圧死



承前

最後まで官憲の暴圧に抗争し、而しも自殺の数日前まで元気でいた文さんが、ふいと気まぐれな運命の戯れに取憑かれたと云ふなら、それは余りにも小説的な仮構である。
[自殺した(?)金子文さんのこと]
『黒色青年』一一号 一九二七年八月





一九二六年の弾圧
三つの大きな「弾圧と事件」があった。
金子文子・朴烈の「大逆事件大審院公判」
黒色青年連盟の「黒旗事件」(銀座事件)。
朝鮮テグ(大邱)の読書会グループにかけられた弾圧、「真友連盟事件」。
  従来、個別の事件と弾圧でしか語られていない。詳細に論じられているのは金子、朴の「大逆事件」だけであり、他の二つは断片的な記述だけである。しかし囚われた同志たち、関連づけられた組織は密接につながっている。
  当時、日本と朝鮮の官憲は国家権力の意を受け朝鮮半島、中国、日本列島の東アジアにおけるアナキズム運動、あるいは社会主義運動、共産主義運動の壊滅を企図した。台湾、朝鮮への支配の徹底と中国への本格的侵略を開始するため各地域におけるアナキストたちの連帯した活動を分断し孤立化させることが急務であった。その官憲の企図は八〇年近く経た今日にも及び全体像を把握することの困難を強いている。
  四人の死を伝えていくことが、朝鮮と日本のアナキストたちの連帯した活動の検証となり黒友会、不逞社を源とする共同した闘いの継続、一九二〇年代後半の東方無政府主義者連盟につながる東アジアの各地域でのアナキストたちの活動の一旦を描くこと、一九二〇年代、日本列島におけるアナキズム運動史を捉え直す端緒になる。
  関東大震災を機に国家権力は戒厳令下、究極の治安弾圧を行使し、軍隊、警察、民間の暴力によって朝鮮人、中国人、社会主義者を虐殺した。その実績をもとに一九二五年、従来の治安警察法を超える治安法としての治安維持法を制定し、合法的、恒久的、法律の名のもとに社会体制を変革しようとする人々への弾圧を開始した。 

囚われたアナキスト四人の死
一九二三年、関東大震災後の戒厳令、二五年の治安維持法制定と暴圧を行使する政治状況は整えられていた。従来、金子文子・朴烈の大逆事件においては金子文子の獄中死は知られている。さらに三人のアナキストたちが過酷な獄中弾圧が原因として病死したことは知られていない。彼女彼らの死は個別にも語られることもほとんどない。一五年前の大逆罪弾圧、幸徳事件では二四名のうち一二名が刑死し、さらに獄中病死者と弾圧の犠牲者が出ている。この金子文子・朴烈の件でも当初関連づけられた不逞社同志の人数は多かった。しかし大逆罪で大審院に付されたのは二人だけである。金子文子・朴烈が同志たちへの波及を阻止することと引き換えに、皇太子を打倒対象としていたことを予審で容認したのである。
結果として刑死者はなかったが、一連の経緯を調べる限り不逞社、黒友会への弾圧を端緒として関わった同志たちの死がある。
新山初代 
  一九二三年 一一月二七日死去。二二歳。
二〇年三月、女学校を卒業後、正則英語学校夜学で金子文子と知り合い、金子は「初代さんは恐らく私の一生を通じて私が見出し得た、ただ一人の女性であったろう」と語る。新山は金子に『労働者セイリョフ』を貸し、ベルグソン、スペンサー、ヘーゲルや、ステイルナー、アルツィバーゼフ、ニーチェというニヒリズム傾向の思想も伝える。二三年五月、朴烈、金子文子らの不逞社に加入、仲間の金重漢と恋愛。八月中旬、新山は雑誌『自擅』を金と共に発行。八月二〇日、根津での大杉呼びかけによるアナキストの同盟を目論んだ集まりに参加。関東大震災後、不逞社の仲間への逮捕が続くなか新山も九月二四日、警視庁に連行され治安警察法違反の容疑で逮捕。取り調べで病気が悪化、危篤状態で釈放。一一月二七日未明、芝の協調会病院で死去、二二歳であった。一二月二日、母親、妹たちと女学校の同級生一人だけの寂しい葬儀が行われたと新聞は伝える。        

金子文子
  一九二六年 七月二三日 二三歳。
  前号に宇都宮刑務所栃木支所における獄中死のことは記した。ここでは同志たちの金子文子への想いを引く。
「金子ふみ子君は朴君と同棲未だに二カ年に満たないが一女性として現社会に叛逆して起ってから以来数年、転変極みない生を亨て、苦慘に続く暴圧の下に呻きつつも弱められた女性として起ち、更に一個の人間として、我等の戦線に起って来た。今その苦慘二十五年の生涯は如何に〇〇の××××××〇〇〇〇か、知る由もない。
  然し去日中大審院法廷に立って、顔色変えることのなかった彼女は、今八百枚にあまる自叙伝を執筆し終わっている諸君の前に何時かは現れることがあるだろう。」(『黒色青年』一号一九二六年四月)

黒姫百合 金子文子さんへ  
備前又二郎  追悼詩歌  一九二七・七・一五
我戀す──ソフィアを 
オロシアなる  ソフィアのごとき 女を 
秘密結社のプランに就て 
夜もすがら語らえり  黒濤社の 夏の一夜よ 
左様(アデイアウ)なら 同志よ ! 
確と握りし君が拳の把握の  今も忘れがたかり 
「労働者セイリオフ」を 
胸に秘め 死に生きし君の  ………の心しみゝに可憐し 
命絶まる その刹那まで 
一筋に………に生きし 面影偲ぶ 

洪鎭祐
  一九二八年 五月一八日 午後五時二五分死去、三二歳。
不逞社、黒友会に参加、朴烈、金子文子らと共に活動。朝鮮文アナキズム機関紙『民衆運動』、『自壇』創刊。関東大震災後逮捕。二四年夏、市ヶ谷を出獄、朝鮮に帰る。在郷一年、同志を呼合した「黒旗連盟」を組織するも逮捕され同志一〇名により不穏な計画と運動に着手したと、治安維持法により懲役一年の判決。服役中病が重くなり仮出獄をいったんはするも残余刑数ヶ月を大田刑務所で送り再び重篤となる。京城大学病院にて、親友李箕泳君と彼の妹達少数の友人に見送られ死去。



肖像写真図版■■■ 洪鎭祐⇒肖像写真図版↓ 金墨(金正根)■■■



金墨(金正根)
一九二八年 八月六日死去。三九歳。
金子文子の死因追及のため同志四、五人、布施弁護士と共に栃木刑務所へ赴く。東京に戻り追悼会を催さんとしたが遺骨が持ち出された件で検束。そのまま栗原、椋本と共に朝鮮へ送られ真友連盟事件で五カ年の懲役を言渡され大邱監獄に於て服役。肺患に罹り、二八年四月、最早見込みなしと出獄を許され、父親に抱かれ自宅へ帰る。「やせていてまるで骸骨のようで見るに忍びぬ哀れな姿」。家の周りは警察が厳重な警戒、同志友人等の訪問も自由にならないなか多量の喀血をなし八月六日、逝く。

大逆事件大審院公判
金子文子・朴烈の裁判過程から大審院判決後にかけて、同志たちは黒友会、不逞社の活動を継承する。
  官憲の資料に日帝本国内の朝鮮人アナキストの「動向」が記述されている。
「不逞社検挙後の残党張祥重、李弘根、元心昌等一味の者は徐々に挽回運動に努め…………大正十五年十月陸洪均等は黒友会を黒色青年連盟と改称し(一)自由連合主義を高唱す(二)被征服者の解放は其自身の力でなにければならぬ等のスローガンを発表し」
「内地人無政府主義団体黒色青年連盟に加入せるが彼等はあくまで朴烈の遺志を継承する為とて[不逞社]と改称し同年十二月機関紙『黒友』を発行せるも発禁処分となりたるを以て」
「更に黒風会と改称し李弘根、元勳、朴茫等は総同盟系なりし東興労働同盟を本会の細胞団体たらしむべく画し更に昭和二年二月本会の別働隊たる朝鮮自由労働者組合を呉宇栄等によりて組織せしめて運動線の拡大に務むる処あり」
  さらに官憲資料は不逞社が弾圧を受けた後に朝鮮に戻ったメンバーの名を挙げている。「然るに先是不逞社事件の関係者徐東星は予審免訴となりて大邱に帰来後大正十四年九月同志を糾合して朴烈の遺志を継承実現すべく真友連盟を組織し別項重要事件記載の如き不逞行動を画し未然に検挙せられたり」。ここには不逞社と真友連盟を結びつけた記述があり真友連盟を当初から機会があれば潰すというこんたんが認められる。
組織関係に関して官憲の把握が正確なものか疑問は残る。たとえば「黒友会を黒色青年連盟と改称」というのは組織を誤認した記述ではないか。黒色青年連盟というのは個別グループの自由連合の結果、結成された連盟であるので「改称」というのはおかしい記述である。すぐ「黒色青年連盟に加入」という記述もあり矛盾するのである。しかし黒友会、不逞社、黒風会という一九二三年の弾圧時のグループ名が継承され使われていたのは同志たちの行動、証言からも確認できる。
大審院、金子文子、朴烈の裁判傍聴に黒友会のメンバーが来ていたと報道されている。
  また大審院開始前後に東京に滞在した朝鮮のアナキスト、チェ・カムニョンの動向からも黒友会の存在が明らかにされている。
「黒友会のイ・ホングンをしばしば訪れるようになった。……黒友会の応接間、南側壁には朴烈、金子文子、新山初代などの写真が、北側壁には大杉栄、伊藤野枝の写真が貼ってあった。そして国語と漢文で色々な標語が貼ってあった。 [資本家と同じ共産党一派を排撃しよう][職業的運動者を放逐と政治運動者を埋葬しよう][中央集権主義を排斥して自由連合主義を高唱しよう][被征服者の解放は自身の力でしよう][中央集権主義の共産党を撲滅しよう][売名的運動者を放逐しよう]などがそれだ。」さらに不逞社が二七年二月に黒風会と改称しチェも参加と語られている。

黒旗事件(銀座事件)
  黒色青年連盟機関紙の記事を引用する。
「一九二六年、黒色青年連盟結成、銀座デモンストレーションわが黒色青年連盟は一月三一日午後六時半より芝協調会館で第一回の演説会を開催した。東京地方に散在する無政府主義団体の最初の会合であった。会する者七百有余。二流の黒旗の下には六つのスローガンが挙げられていた。四〇数名の弁士はこのスローガンによって熱弁を振ったその殆ど大部分はお極りの弁士 中止。自然児の深沼君は、紙製のバクダンを壇上にたたきつけて検束、同横山君は私服警官と論争して検束斯くして横暴なる官権の圧迫の下に、遂に午後九時散会するに余儀なかった。」
「…会衆は街頭へ出た。黒色青年連盟と染めなされた黒旗は高く頭上に翻って銀座へ黒旗は疾風の如くに銀座街頭に駆走する。」
「礫は飛ぶ。旗先は硝子窓にぶち当る。この行動を阻止しようとした尾張町交番の岸巡査は全治二週間を要する殴打傷を頭部に受け遂に窓硝子の破壊されたもの二〇有余軒」
「築地署は直ちに非常線を張って三二名を検束し愛宕署に六名、翌早朝各団体は寝込みを襲われて家宅捜索を受け、所轄署に取調べを受けた。かくして我等はかかる微細の事件なるに不拘、遂に同志二二名を市ヶ谷刑務所に送らねばならなかった。」
「越えて翌月一三日、山崎真道、松浦良一、匹田治作、熊谷順二、北浦馨、荒木秀夫、秋山龍四郎の七君を残して検事令状〈拘留の必要を認めず〉との理由によって出獄した。 折柄開会中の帝国議会に一大波乱を起こしたことはあまりに明白だ」(『黒色青年』一号二六年四月)
  実際に直後の帝国議会では与野党の政治家が治安維持をめぐり大論議を行い首相自ら答弁、『東京朝日新聞』が夕刊(二月三日の夕刊で報じている。
  [見出し] 臨時閣議を開き政府の対策成る 昨夜内務省の協議に引続き答弁方針を決定す 銀座の暴行事件は果して何人の責任ぞ、無警察に等しき帝都の取締を、政本相提携して内相に迫る、衆議院本会議、銀座街頭の暴行と革命歌高唱
「一体帝国の警察は何をしているのか常にかくの如き事件が事前に防がれず事後になって漸く騒ぐが如きは何事であるか」
「黒色青年連盟は今日の思想団体中最も危険なる性質を有するものなることは当局も知っているはずである」「協調会館にて禁止をされた時なり殺気立っていたとのことである彼等が銀座に現われるや暴行は勝手次第で且革命歌をも歌ったとのことである」
「この危険なる思想の表現として帝都の中央部に暴行事件が起ったことは一つの革命とも見られるではないか」
「この事実に対して警視庁の執りたる取締は不完全ではなかったか」
若槻首相の答弁
「協調会館の演説会では著しき事故もなく解散をしたがその一部の者のうち約三十名は銀座街に出たので電話で警戒を通報した山崎某が博品館のガラスを破壊したのが動機となり各所のガラスを破壊するに至ったがその時は遂に検束することを得なかった」
「事件の内容に就いては手落もあったが処分はせぬ無政府主義者は近来衰微して来たので之が発達を目論見て会合を催したものである」
「銀座方面に行ったものは別に危隨の傾向もなかったので遺憾な事件を起するに至った」
「治安に関しては警察官に対し一層注意を払っている」「今回の事件に付て全然警察も手落ちの無かったとは思わぬが何分にも事柄が事柄丈に十分注意は払っている然し警察官を懲戒処分をするまでには考えていない責任は十分感じている」
  内閣の緊急会議と与党の対策会議も開かれている。
「無政府主義取締近く声明せん 」「本日閣議で決定」「黙視できぬ銀座街事件」 
『黒色青年』誌には事後弾圧された同志たちの公判経過が報告されている。
  第四号一九二六年七月
市ヶ谷刑務所にある銀座事件の諸君は接見禁止が解けた。同志諸君の面会通信を希望している。熊谷順二君、山崎真道……、荒木秀雄君、北浦君、匹田治作君、松浦良一君、秋山龍四郎君 
  第六号一九二六年一二月
銀座事件の秋山、北浦、山崎、松浦、匹田、熊谷の七君實付出獄。みな元気。 
  第九号一九二七年六月
銀座騒擾事件の判決は左記の通り決定  
懲役八ヶ月、熊谷順二、匹田治作、松浦良一、秋山龍四郎 懲役八ヶ月以上一年未満少年法に依る山崎真道、罰金三〇円、北浦馨、荒木秀雄
  第一一号 一九二七年八月
控訴した銀座事件の公判は来る九月八日午前九時三号法廷。 

真友連盟事件
国家権力は朴烈、金子文子の大逆事件においては治安警察法ですら他の同志を公判に持ち込めず、また前述の黒色青年連盟による黒旗事件(銀座事件)において警備の失態と治安維持法を行使できないという屈辱を喫した。
この事件は国家権力が治安維持力の回復を誇示するため、アナキストたちによる「大逆犯」金子文子の追悼行動を契機として黒色青年連盟に参加していた椋本、栗原、金正根を真友連盟の周辺にいた仲間の偽証によりこじつけ治安維持法違反としたものである。
日帝本国と朝鮮のアナキストの連帯、共同した闘争をことごとく潰すという官憲の大弾圧である。一旦は予審で免訴の決定が出ているように証拠は薄弱でフレームアップを物語っている。検察側の主張はアナキズム思想、運動そのものが治安維持法違反になるとこじつけている。真友連盟自体はアナキズムの読書会として出発したグループである。                                            
官憲資料にもフレームアップされた真友連盟事件の概要が記されている。再び徐東星の名が出されている。
「一 大正十四年九月大邱に於ける主義者等相集り親睦修養を標榜して真友連盟を組織したるが……朴烈事件に連座し予審免訴となれる徐東星が朴烈の遺志を継ぎ志操強固にして犠牲的精神に富む同志八名を糾合し組織したるもの」
  不逞社のメンバーであった徐東星が大邱に戻り読書会を組織した行為を「朴烈の遺志」に結び付けている。すなわち「大逆事件」を再び起こしかねないという「陰謀」集団としてフレームアップさせているのである。
「……同年十一月連盟員、方漢相が東京に潜行し約三箇月滞在して内地人無政府主義者と往来したることあり其の後方漢相、申宰模の両名は在京の同志と頻繁に交通せることありたるのみならず」
  方漢相が東京を訪れたのは大審院の公判傍聴が目的であろう。当初一二月に開廷されるはずであり、それに合わせての一一月の東京訪問である。               
「両名は嘗て朴烈の入獄に対し義捐金を送付したる形跡あり」
この記述が二人への更なる支援のための東京訪問であるということを証拠付けている。
  栗原一男、椋本運雄、金正根へのフレームアップは黒色青年連盟と関連づけている。
「栗原一男は本件と密接の関係あること判明せるを以て金正根、栗原及椋本の三名を東京に於て逮捕連行し取調の結果何れも右の如き犯罪事実明瞭となりたるを以て有罪意見にて八月二十八日検事局に送致せり」
  また、金子文子、朴烈への死刑弾圧に対処するため栗原一男が事前に二人の身内、朝鮮の同志たちと接触したことも「事件」と関連付けられている。一九二六年四月から始まる。
「二、犯罪事実(一) 栗原の来朝鮮と破壊暗殺の教唆関係者の供述を総合するに本年(一九二六)四月栗原一男が朴烈死刑の場合屍体引取りに要する委任状及金子文子の入籍に関する用務と称し朴烈の兄朴廷植に面会すべく大邱に来れる際.……」
  金子文子、朴烈が刑務所内で結婚届を出したのが三月二三日、大審院死刑判決が二五日、減刑が本人に伝わるのが四月五日であるが栗原は急きょ判決直後に朝鮮に向かい朴烈の兄を訪れたのではないか。栗原自身も不逞社のメンバーであったが予審終結後に釈放され、金子と朴への救援活動、面会を続けていた。そして大審院法廷は一般傍聴人が第一回開廷直後に禁止されたが特別傍聴人となり二人の裁判を支えた。官憲にとっては栗原が裁判所からかちとった権利と二人への救援活動が憎々しかったのではないか。裁判所の一部は国家権力に抗することができず、免訴に対する検事抗告へ抗告裁判所は以下のように断定し、前の免訴を取消し公判に附している。この決定にはグループとグループを単純に結びつけることでしか「証明」できない治安維持法フレームアップの本質が示されている。
「被告人栗原一男は東京市内に於て、同志松永鹿一、小泉哲郎、古川時雄、井上新吉等と共に無政府主義的運動を目的とする結社《自我人社》を、」
「被告人椋本運雄は同じく東京市内に於て深沼弘胤、麻生義、前田淳一等と共に同一目的を有する《黒化社》なる結社を組織し、」
「又被告人金正根は朴烈こと朴準植が組織したる無政府主義的結社なる《黒友会》に加盟し、朴烈下獄の後は其の首領として現に同会の牛耳を執りたるが、」
「同被告人等は相謀り、汎く全国に於ける無政府主義的思想の懐抱者を結合統一して其の目的とする理想社会の実現運動を促進せしめんことを企画し、大正一五年一月中、右被告人等の組織せる自我人社、黒友会、及び黒化社を中心として、黒旋風社、解放戦線社、自由労働運動社、関東労働組合連合会、其他各地の無政府主義傾向に在る団体を糾合して黒色青年連盟なる一大結社を統合し、」
「其の本部を東京市内に置き爾来被告人等は主動の位置に在りて不穏文書の配布、通信集会協議、其他の方法に依り同志間に於ける連絡を密接ならしむると共に其の目的達成の為には騒擾暴行其の他生命身体又ま財産に危害を加ふべき犯罪を暗示せる所謂破壊的直接行動に依るの外なき旨を以て内地並に朝鮮に於ける同志を激励煽動し居りたるものなり」
  椋本は金子文子の遺骨を自室で預かり、それ故官憲からの報復を受け、真友連盟に関わる治安維持法違反によりフレームアップ弾圧され懲役三年の実刑となる。
  江西一三は「関東大震災後の日比谷公園のバラックに自然児連盟員一〇人余り占拠」と回想、椋本の名も挙げている。(『江西一三自伝』一九七六年五月発行、江西一三自伝刊行会刊)
『黒色青年』紙の消息記事で初めて椋本の名が出る。
「自然児連盟は都合上解体、残務整理、府下上落合六二五 前田淳一君方」『黒色青年』一九二六年四月。次いで「旧自然児連盟の前田淳一、椋本運雄、深沼弘胤の三君、それに文芸批評社の麻生義君が一緒になって黒化社をつくった。機関紙『黒化』を出す。同社は市外落合町上落合六二五。来月初旬より続々とパンフを刊行する由」(『黒色青年』二六年五月)
  深沼火魯胤(弘胤)の獄中記「避難漫言」によると(『激風』創刊号、二六年六月掲載)、椋本、山田緑郎、臼井源と四人で二五年初夏「公務執行妨害、傷害」の弾圧を受け、椋本は市ヶ谷刑務所、豊多摩刑務所と合わせて三ヶ月も囚われ、二五年一〇月に出所とある。
次に椋本の名が現れるのは先に記した金子文子の遺骨「確保」をめぐる一件である。池袋「自我人社」に集まった同志の中から中西伊之助、古川時雄らが八月一日に遺骨の移動を口実に検束される。捜査の結果、遺骨は落合の前田淳一(椋本運雄ともいわれる)方にあることが判明し押収され、椋本も文子の母親や栗原一男と共に検束される。
金正根も椋本と同様に金子文子の追悼行動から検束された。金は一九二〇年、日本に渡り行商をしなが苦学して早大に入学。不逞社へ出入り、鶏林荘に滞在して運動、震災後は黒友会に参加し二五年五月、同志と共に家を借りその事務所とする。
「…それから直ぐ一九二六年七月に日本に於て、アジアの弱力民族の大会が開かれんとした時に(ここの弱力民族会議は反動分子共のもので真の弱力民族を代表するのではない)彼は憤然その大会を粉砕すべく単身同様で長崎へ出発の準備を急いだが、遺憾ながら出発の前夜金子文子さんの死を伝える電報が届いた。同志等は驚いた。彼女がまさか、と自殺を信ずるものは一人もいなかった。彼は同志四、五人と布施弁護士と共に栃木刑務所へ赴いた。そして遺骨が布施氏宅へ着くや間もなく、遺骨紛失事件を起こし(遺骨は紛失したのではなく追悼会を催さんと同志の手によって持ち出されて、本を包んで遺骨のように見せかけ終に番犬共をがっかりさせた事件)彼は検束されたが…」(「叛逆者伝一九」金墨君(正根)朝鮮 宋暎運『自由連合新聞』四八号一九三〇年六月)
母親や中西らは半日後に検束を解除されるが椋本、栗原らはそのまま拘束され続ける。そのあげく椋本たちは朝鮮大邱の「陰謀事件」にこじつけられ八月一五日大邱に送られるのである。
「重大犯人受取りのため警視庁へ出張した慶北道警察部の成富高等課長吉川判事、谷重高等主任以下五名は犯人主魁栗原一男以下四名を護送して一五日帰任した。犯人は目下大邱署で厳重取調べ中事件の内容は厳秘で取調べ進捗につれ拡大の見込みである」
と一般紙で報道される。
  一〇月、大邱地方予審に廻されるが、翌二七年二月中旬、予審の長期化に対し一斉にハンガーストライキを一週間続ける。これが効を奏して、書籍の差入が許されるようになる。(『黒色青年』第八号、二七年四月)。なお『黒色青年』一〇号二七年七月にも公判報告記事が掲載。
  一九二七年三月八日、予審が終結し栗原、椋本、金墨(金正根)の三人は免訴になるが検事はこれを不当として覆審法院に抗告、その結果免訴は覆り公判に付され、二七年五月二六日、六月九日、一四日と三回の公判が開かれる。栗原からの手紙によると「椋本と金正根と僕は、検事の求刑は各一〇年です。真友連盟の主なる方漢相、申宰模は各五年です。他は真友連盟を創立する際協議した者四、五名が各四年、後から真友連盟に加盟した者が各三年の求刑がありました」
  一方、東京では、同年六月二三日、黒色青年連盟が朝鮮総督府東京出張所並びに司法省に殺到し、抗議書を突きつけ同事件の関係者の即時釈放を要求する。
抗議書  
現在、朝鮮大邱府大邱刑務所に捕われつつある同志椋本運雄、栗原一男、金正根の三名は大正一五年八月、朝鮮官憲の依頼により警視庁より護送されたものである。該検挙の理由は、予審決定書の示す通り、只無政府主義者を抱懐するという実に根拠薄弱なものであり、且つ直接的原因なる朝鮮真友連盟の爆破事件なるものの真相も、一モルヒネ患者の病的缺陥を奇禍とし、官憲がモルヒネ注射を交換条件として捏造的自白を強いたるものと伝えられている。而も此の事件は、第一回予審に於て免訴となり、検事控訴により覆審院に廻付され、改めて一〇年の求刑を受けたものである。万人が等しく此の事件を捏造的事件であると見做しているにも拘らず、独り官憲のみが何等かあるものの如く取り扱ふは、必ずやそこに何等かあるものの如く取扱ふは、必ずやそこに何等かの魂胆があってのことは明らかである。尚又、現在台湾にこれと略同様の困危に遭遇しつつある黒色連盟事件がある。我等は飽まで此の不法監禁に反対すると同時に、両事件の同志全部の即時釈放を茲に要求する。
昭和二年六月二三日   黒色青年連盟
栗原、椋本は六月二五日判決公判で懲役三年、金は懲役五年の懲役を言渡され即日下獄となり、七月四日再び黒連は抗議書を突きつける。しかし京城西大門刑務所、大邱監獄へ移監させられる。
一九二七年六月二五日〈大邱より〉として椋本運雄の手紙が
掲載。「……横暴、無茶、彼等番犬の処置に反抗して、細食、放歌、毒舌、騒擾したのが一〇年だ、と言う検事の論拠が如何に乱暴極まるものであ
るか位の事は、多言を要せずして明な事である。……」(『黒色青年』一二号一九二七年九月)。
  ようやく満期の一九二九年六月一九日、椋本、栗原は釈放となる。「椋本、栗原出獄」「現在東京市外代々木富ヶ谷の〈A思想協〉に於て静養中である。両君とも極めて元気だ。なお同事件関係の同志五名は大邱刑務所に被監禁中」。(『自由連合新聞』三七号二九年七月)
  朝鮮の同志たちは、一九三〇年一月二四日、二五日に一度は釈放になる。
「真友連盟の同志等出獄」「何の理由も泣く検挙され、不法にも治維法を適用されて以来三カ年を獄中に送った真友連盟員諸君はその後続々と出獄中であるが、去る一月二十四日と二十五日に馬鳴、禹雲海の両君は元気で出獄した。目下大邱の自宅で静養中であるが伝うるところに依れば、馬君は約一週間前、犯人逮捕を妨害したとかで再び「公務執行妨害」とういうイイ加減な罪名で検挙されている由。」(『自由連合新聞』四六号三〇年四月)
真友連盟事件の被告とされたアナキストたちは五年にわたり活動を止められた。日本のアナキストたちも分裂と官憲からの弾圧により活動は封殺されつつあった。さらに日帝は中国各地においても朝鮮のアナキストたちを弾圧、東アジアのアナキストたちは合法的な活動の途を閉ざされ、武装抵抗の途に向かう。

金子文子が獄中に囚われる四ヶ月前、メーデーのデモにいた。官憲の参加者に対する暴圧は凄まじいものがあり、これからの運動への弾圧をも予期させるものでもあった。そして金子文子は国家権力に抗する叛逆の心情をより強くし、日帝に対する朝鮮の同志たちの闘いに学ぼうとしていた。そして詩を残した。


「今年のメーデー」       
金子ふみ子  一九二三年
…… 旗をもぎ取られた其の時 ! 
口を緘せられた時其の時 !
其の時こそは我々はいさぎよく、
ダイナマイトに最後の運動を 
打ち切ることが出来ると信じます。 
朝鮮内地に於ける鮮人の 
勇敢なる思い切った運動ふりを見せつけられて、
ますます此の感を深うします。


  

229墓碑裏