川村湊は『コレクション戦争と文学6日清日露の戦争』の解説 において「日清日露戦争を一つの連続した戦争であると認識すべきだと考えている」と記述。

 続けて「あるいは日清戦争の後に<台湾征服戦争>さらに<朝鮮征服戦争>と続いていわゆる<日露戦争>がありさらに<日独戦争><日ソ戦争>と続いてゆくと捉えられるのではないかということだ」

 さらに「日独戦争はドイツ領であった南洋群島(ミクロネシア)やドイツの租借地山東省の青島への出兵、日ソ戦争 シベリア出兵、ノモンハン軍事衝突」と整理をしている。645,646

 日本の近代で直接に戦争へ関与しなかった時期は僅かと言い切れる。アジア・太平洋戦争を含めて15年戦争と呼称する人たちもいる。

 また20世紀末の東アジアで戦端を開いてから50年戦争と呼称する研究者も存在する。

 川村の記述を読み「韓国強制併合10 年」を前にした2009年、歴史研究者による「日清戦争」に関する著作の対照メモを作成したことを想起、以下にまとめなおす。

前段として≪江華島事件≫は戦争行為

 2002年に歴史研究者鈴木淳が「史料紹介」として論文を発表。『史学雑誌』200212月号。

鈴木は防衛庁防衛研究所戦史部図書館所蔵の

「明八 孟春 雲揚 朝鮮廻航記事」綴り所収の報告書を分析し、従来の「改訂」報告書と比較し、戦争行為が三日間にわたっていたこと、当初の侵入が飲料水の確保目的であったという虚偽を明らかにし、先行研究が推測でしか述べられなかった水の補給ではなかったことを実証した。<初出誌参照>

 鈴木は一〇月八日付の「改訂」報告との異動を考察している。   

 綴りは一九六四年四月一三日に伊東二郎丸が寄贈、父親伊東祐麿の旧蔵文書で、事件当時中艦隊指揮官、雲揚を指揮する立場であった。伊東祐麿艦隊指揮官から河村純義海軍大輔に提出、河村から太政官に提出された。


 井上勝生は岩波新書『幕末・維新』(シリーズ日本近現代史)で上記文書に触れている。他に中塚明「江華島事件再考」『社会評論』140号、2005

日清戦争≫に関して

 既存の日本人による研究書では「第二次甲午農民戦争と日清戦争」の位置づけが「整理」されていない。

韓国の中学歴史教科書は別項目としてたてているが、日

本の研究者による「日清戦争」では第二次甲午農民戦争の記述が少ない。

「甲午農民戦争」への介入、戦闘は日本の軍隊による朝鮮民衆へのジェノサイドである。

「日清戦争」と別に呼称・表現をしないと、その実相を

把握できない。

チョ・キョンダル著『異端の民衆反乱 東学の甲午農民戦争』岩波書店同書317

近代日本が海外で最初に行った大虐殺行為であったと言え、近代日本史上本来忘れてはならない重要な事件である。第二次農民戦争は朝鮮国土の半分の地域で展開されたものであり、各地の蜂起状況や弾圧状況の特徴などなお解明されなければならない点があるが、近代日本最初の本格的対外侵略史の解明という視角からの甲午農民戦争研究はその全貌を解明する上でも今後の重要な課題となってくるであろう。≫


 日本人の研究者では「日清戦争」に関して原田敬一の著作が2007,8年に続けて刊行されているが、軍事的には「大本営」を基軸においているため、視点は鋭いが

「第二次甲午農民戦争」に関する記述は不充分であり位置づけが曖昧である。原田は「もうひとつの日清戦争」という文言を使用。


『日清・日露戦争』岩波新書、20072

72頁≪東学農民軍への本格的な弾圧が、一一月から翌九五年四月初旬にかけて続けられる。弾圧部隊の主力は一一月初旬に到着した後備歩兵独立第一九大隊など二七〇

〇名の日本軍。それに二八〇〇名の朝鮮政府軍、各地の両班士族や土豪などが組織する反動的な民ぽ軍が加わり村の隅々まで捜索する「討伐」作戦を続け最西南端の海南・珍島まで追いつめ文字通り殲滅した。

 もう一つの日清戦争であった≫


 原田『日清戦争 戦争の日本史19』 吉川弘文舘20088

284頁「さらにもう一つの≪日清戦争≫や≪第二次日韓戦争≫とも呼ばれる≪甲午農民戦争≫での犠牲者は三万名とも五万名ともいわれている。(姜徳相『錦絵の中の朝鮮と中国』)」


 檜山幸夫著 『日清戦争』 (19978月 講談社) も「日清戦争」を解明し、視点も鋭いものがあるが「第二次甲午農民戦争」に関しては「解明」をしていない。同書序文。

 ≪日清戦争もその内容はあまり解明されていない

立憲制下における最初の宣戦布告を伴った戦争として

「大日本帝国」による五〇年の戦争の歴史を創りだしたきっかけともいえる。≫

 なお原田も檜山も1894723日の日本軍による王 戦争の完遂で広義の日清戦争は終わる

宮と京城の軍事占領・制圧を「日朝戦争」と位置づけて 第二局面 外交闘争

いる。姜徳相は日本軍によるクーデターと表現している。陸奥外交の敗北

第三局面 民衆抑圧闘争

 原田は「日清戦争」を「広義」の枠で括っているが、

「第二次甲午農民戦争」の項目をたてていない。「大本

営」の動向を軸にしているからである。

 原田の整理に、「第二次甲午農民戦争」が加えられてはじめて「日清戦争」の全体像が「解明」されると考える。

以下・各著作の「日清戦争」の解明

原田敬一『日清・日露戦争』岩波新書

86頁。

参謀本部編『明治廿七八年日清戦史』

一八九四年七月二五日から九五年一一月三〇日が戦争期間。同書は朝鮮との「七月二三日戦争」も組み入れ 広義の「日清戦争」を

一、 七月二三日の日朝戦争

二、 狭義の日清戦争、一八九四年七月二五日から一八九五年四月一七日

三、 台湾征服戦争一八九五年五月一〇日から一一月三〇日 
の三期間を合わせたものと考える

参謀本部編『明治廿七八年日清戦史』は七月二三日戦争を否定した。公式戦史の上では存在をしない

リアルタイムでこの戦争を報じていたが「日清戦争」が終わった時には新聞各紙は七月二三日戦争のことを忘れていた


原田敬一『日清戦争』吉川弘文館

37

日清戦争には三つの局面があり、

三局面の重層的構造という全体像を描かなければ、日清戦争はわからない、と指摘したのは藤村道生『日清戦争

──東アジア近代史の転換点』(岩波新書 1973年) だった。藤村説は


第一の局面は朝鮮に対する清国の宗主権の排除、清国との武力闘争が主要な手段これを通常日清戦争という

第二の局面

中国および朝鮮の分割をめぐる列強との競争の局面、陸奥外交などの外交問題

第三の局面

「旅順虐殺事件に象徴される出兵・占領地域の民衆抑圧の局面」で甲午農民戦争から台湾の抗日義兵闘争まで

「戦争の全過程を支配」するものだった

筆者(註・原田)は藤村説をふまえ次のように発展させ

るべき

第一 局面 軍事闘争

日朝戦争に始まり、狭義の日清戦争を終わらせ台湾征服

甲午農民戦争制圧戦で始まり占領地軍政を経て農民戦争殲滅戦まで

朝鮮・清国・台湾の民衆との対立が生まれ緊張関係が続く。


日本の大本営189465日設置解散は189641日である

大本営の機能が戦争を指導する統帥機関と理解

大本営指導 「日朝戦争」「台湾征服戦争」と呼ぶことができる

ただ「日朝戦争」という名称はこれまでの日清戦争理解から離れすぎているので名称から内容がわかりやすい

「七月二十三日戦争」という名称を本書は提案したい

『国定韓国中学校国史教科書』 19 8年明石書店東学農民運動 281頁から28

学習の手引き 公州・ウグムチ(牛金峙)の戦闘

「日本軍が景福宮を占領、新政権をたてた情報は日本に対する憤激をよび起こした」

「東学農民軍は斥倭を叫びたちあがる」

「牛金峙をめぐり東学農民軍と政府軍・日本軍の間で激しい攻防戦が行われた」

6,7日間にわたってつづけられた50余回の攻防戦の末に優秀な近代式武器と装備で武装した日本軍により東学農民軍は多くの死傷者を出し惨敗」


 亀田・註 この記述は日本軍・朝鮮政府軍、両班との共同戦ということに触れていない。

 他に『ジェンダーの視点からみる日韓近現代史』梨の木舎、『未来をひらく歴史』等を参照したが、既存の研究に即した記述である。

「第二次甲午農民戦争と日清戦争」の関係を考察した論文は幾つかあるが未見である。

付記 200812月メモ

20088月『日清戦争』原田敬一

「敵は誰か」94


「敵国」の混乱

日清戦争では189481日「宣戦詔勅 但各大臣連署」という閣議提案がなされ、同日伊藤博文首相から「宣戦詔勅 右謹テ裁可ヲ仰ク」という裁可を求める文書が天皇に提出されている。この閣議提案でも文言の修正が行われており、慎重に「宣戦詔勅」の文案づくりが行われたことが分かるが、そこに到るまでに六つの文案が次々と検討されていた(檜山幸夫「日清戦争宣戦詔勅草案の検討」)。いずれも冒頭は「天佑ヲ保全し万世一系ノ皇策祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス」で始まり、続いて、日本は戦争に入ったと宣言する。その文言が六次の変遷を経た。

第一文書

清国ニ対シテ戦ヲ宣ス

第二文書

清国ニ対シテ戦ヲ宣シ

第三文書

「清国ニ対シテ戦ヲ宣ス」に新しい文言を挿入し「清国及ヒ朝鮮国ニ対シテ戦ヲ宣ス」

第四文書

清国及朝鮮国ニ対シテ戦ヲ宣ス

第五文書

「清国及朝鮮国ニ対シテ戦ヲ宣ス」から「及朝鮮国」を削除する。

第六文書

清国ニ対シテ戦ヲ宣ス


閣議提案

清国ニ対シテ戦ヲ宣ス

というものだった。つまり、第三次案では敵は清国だけではなく、朝鮮国もある、と大きな変更があり、第四次案が作られた。第五次案でも維持されたのだが、異論が出て、この段階で削除となり、第六提案から天皇裁可書までたどりつく。


 文案を起草した責任者の外務省では清国と戦争を始める、という意識は強かったが、朝鮮国との戦争とも位置づけるかどうかについて思案と躊躇があったことがこれらの草案は示している。


「朝鮮国」を敵国と位置づける事件は、ただ一つだった。七月二十三日の王宮占領をめぐって朝鮮軍と戦ったことである。日本軍と朝鮮軍との戦闘、お互いに戦死者や戦傷者を出したこと。日本軍が朝鮮軍を武装解除し、戦利品を押収したこと、などは戦争行為として認めるのが適当だった。おそらく戦後処理の複雑さなどを勘案して、清国とだけの戦争として処理することにも外務省も閣議も了解したと思われる。責任者である陸奥宗光の『蹇蹇録』は、ただ一行、


「日清両国の平和は巳に破裂したり。八月一日を以て 我が皇は宣戦の大詔を発し給へり。」と記すのみだった。



檜山幸夫「日清戦争宣戦詔勅草案の検討」『古文書学研究』1319796月 

日本平和協会 北村透谷 日本最初の反戦団体、日清開戦と共に姿を消す


あとがき

軍事史を主として戦争を描く、近年の動向からはずれている軍事史としての記述を重視、戦争そのものの展開を、狭義の軍事史として深く分析することによって、戦争と軍隊の内在的批判が始めて可能となる、ということは大江『日露戦争の軍事史的研究』や山田朗『軍備拡張の近代史』が強く提示してきたことである。

 それらへの一つの応えが本書であると考えている。平和の追求は軍事のことを知らずとも可能である。しかし、「軍隊と戦争の社会史」を知らずして平和の追求は困難である、というのが率直な感想であり、私の平和への思いである。「日清戦争の軍事史的究明」を果たしたので、次いで『日清戦争の社会史的究明』に取り組みたい。20086


中塚明『歴史の偽造をただす──戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」─』高文研 1997

大江志乃夫『東アジア史としての日清戦争』立風書房 1998

 鈴木純「史料紹介<雲揚>艦長井上良馨の明治8929日付け 江華島事件報告書」『史学雑誌』第11112号 2002

 

 日清戦争にいたる軍事緊張は1894年の日本が意図してもたらした







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